若人の考えていること。

思いのままに書いています。

スポーツに没頭すれば、勉強は必要ないのか。

今からめちゃめちゃ当たり前の事を言います。びっくりするくらい当たり前です。

当たり前すぎて、当たり前体操を踊りたくなるかもしれません。(何言ってるか自分でも分かりません。)

 

ずばり、結論から言うと「勉強もスポーツも両方大事」という話です。

 

というのも、自分がひたすらスポーツに関わってきた人間ですので「人生で大切な事は、すべて野球が教えてくれました!」とかいう言葉を危うく言いそうになりますが、あまりこの類の言葉は好きではありません。

 

そしてそんなスポーツバカに限って「学校の勉強なんてなんの役にも立たない!」とか言いだすので。

 

先日、菅野界隈でこんな言葉が議論になりました。落合陽一さんの“教育が持つ「コンテンツ」と「トレーニング」を認識せよ”という言葉です。

 

今回はこれらを踏まえて勉強とスポーツで学べるものは同じか?という話をしていきます。

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勉強とスポーツとで、学べるものは同じか?

 

まず、学べるものを知識と経験に分けました。

そしてそれを自覚しやすいか否か。に分けてみました。それが以下の表です。

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スポーツ

→知識(野球に関する知識)

❶知識の量は限定される。(自覚しにくい)

 

→経験(努力しても報われない事があること、能力総動員の経験、上下関係etc )

❷レパートリーが多く、変化する。(自覚しやすい)

 

勉強

→知識(勉強した知識)

❸知識の幅は無限大。(自覚しやすい)

 

→経験(努力すれば報われること、やればやった分だけ身につくこと、etc )    

❹レパートリーは少なく、変化しない。(自覚はしやすいが、代替可能で希少性はない。)

 

オレなりの仮説

 

これを踏まえて仮説を立ててみました。

 

❶は、これに気づいている人は、かなり強いと思います。つまり、野球の知識だけを掘り続けるよりも七並べ的に知識を広げていけるタイプの人です。野球のダルビッシュ選手とか、陸上の為末さんとか。例えば「JUST野球の知識」よりも、トレーニング→栄養学→解剖学→人類学みたいに知識を広げる事により、豊かになる事を自覚している人です。これは恐らくある程度その競技に没頭しないとそうはならないと考えます。そしてある一定のところから❸になりますね。

 

❷は、体育会出身者に多い。知識の部分を無視して「人生で大切なことは全て野球が教えてくれました。」というタイプで、「学校の勉強は何も役に立たない」という人。一方で能力総動員した経験は強く、努力しても報われない事があるという事を学べるのもスポーツの特徴かと。

 

❸は、これは言語道断で勉強でしかできません。

 

❹は、僕の経験上ポジティブな経験が多い気がします。努力した分返ってくるとか、成功体験とか、絶対評価的なところも多いので。

 

まとめ

 

つらつらと理屈を並べましたが、このように考えてみるとスポーツで学べる事と勉強で学べる事はやはりそれなりに違います。

 

スポーツに没頭したからといって、勉強をしなくて良いはずがありません。

 

さらに、「学校の勉強は何も役に立たない」は「コンテンツ」(国語、算数、理科とか)しか見えてないからそう言えるのです。

「トレーニング」つまり、勉強をする。ということや、勉強による経験は必要なはずです。

 

ですから、冒頭で紹介した落合陽一さんの“教育が持つ「コンテンツ」と「トレーニング」を認識せよ”という言葉にはそのような意味があったと僕は解釈しています。

 

最近では、フェンシング協会が代表選考に英語能力を加味したり、日本版NCAAユニバースが動き出したりとスポーツ界隈にも"勉強"の必要性が訴えかけられています。

 

運動も〜大事〜。勉強も大事〜。板東は英二。

お後がよろしいようで。

 

 

菅野雅之