若人の考えていること。

思いのままに書いています。

野球という競技の"負け方"

 

「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし。」野球をやってきた人間なら一度は耳にしたことがある言葉だろう。


直訳として「何故か分からないが勝つ事はあっても、何故か分からないが負けてしまう事は無い。負けには必ず理由がある。」というような解釈が多いように感じるが、自分の野球人生を振り返ると、何故か分からないが負けてしまった事は少なからず心当たりがある。

 

今回はこの言葉の意味をきっかけに、野球というスポーツの解像度を上げていきたい。

 

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失敗論


必ずモテる方法など無い。

しかし、これをやると絶対モテないという失敗法は確立されている。


寝癖ボサボサ、洋服ヨレヨレ、異臭プンプンといったような清潔感の欠如は、どんなモテセリフも、モテ仕草も、モテシチュエーションをも打ち負かす。


ただ、清潔感があっても振られることもあるし、優しくても振られることもあるし、お金を持っていても振られることもある。


つまり、これはキングコングの西野さんがよく言っているが、「成功の対極が失敗では無い。失敗の可能性を下げたからと言って、成功の可能性が上がるわけでは無い。」そう。成功と失敗は同じフェーダーでは無いという事だ。


成功事例の転用による成功は難しいが、失敗事例を転用すれば必ず失敗する。成功はアート失敗はサイエンスで、失敗の法則は確立されている。

 


野球における失敗


野球においても上記の話は同じで、"こうすれば必ず勝てる"というのは無い。ホームランを打ったら勝てる訳でも無いし、150km投げたら勝てる訳でも無い。むしろ、相手よりも多くのヒットを打ったのに負けることだってある。


勿論、投手が点を取られなければ負けないのは事実だが、そんな事はやろうと思ってできるなら誰も苦労はしない。

 


早速、野球における清潔感の欠如である失敗の法則を確立させたいが、その前に野球というスポーツの特性について整理したい。

 

 

野球というスポーツ


サッカー鎌倉インターナショナルFC監督の河内一馬さんのnoteが好きでよく読むのだが、あるnoteで河内さんはスポーツをいくつかに分類していた。それを引用する。

 

人間の脳には『“思考態度”のエラー』と『“思考回路”のエラー』が存在する|河内一馬|note


河内さんはスポーツを個人と集団、競争と闘争に分類している。個人と集団は説明せずとも理解できると思うが、競争と闘争とは何か。河内さんはこう表現している。

 

この両者の違いで最も大きなポイントとなるのは「時空間」と「妨害」である。「時空間」とはその名の通り時間と空間のことを指し、「妨害」とは「競技者が目的を達成しようとする過程において、相手競技者に意図して干渉をする行為」のことを言う。それらを分けるのは、相手を妨害できるか否かである。

 


例えば、100m走は個人の競争。バスケは集団の闘争。

 


そう考えると、野球とは個人的要素が極めて強い集団競技であり、競争的要素を含んだ闘争である。これが何を意味するかを下記に述べる。

 


スキルの領域

 


コンタクトがない、競争要素を含んだ闘争競技である野球において、100m走や、格闘技などのようにスキルそのものが発揮されるケースは少ない。しかし、集団競技でありながら、個人要素が強い。そのためスキルによる決着がつく場面がある。

 


そう言って真っ先に思いつくのは、投手と打者の勝負であるが、ただこれは一概に個人の勝負とはい難い部分も多い事から、あらかじめ例からは外す。

 

野球におけるスキルとは何か。一言で表すなら「スキルとは速さである」そして「速さとは可能性である」。

 

スイングスピード、投げる球の球速、足の速さだ。


例えば、1塁からリードを取り、モーションの始動と同時にスタートを切ってスライディングをする。

 

そのタイムよりも、投手のクイックモーションと捕手の2塁送球の合計タイムが遅ければ盗塁は成功する。


これはスキルだ。例えば、捕手の2塁送球が2.3秒かかってしまえば、投手のクイックタイムが1.2秒であったとしても、(投手としては合格点である)足の速い選手であれば必ずセーフになる。


これは一例に過ぎないが、こうしたスキルで戦う領域を創り出し、勝てるスキルの領域で、勝負していくことが野球という競技では極めて重要である。


セオリーがまかり通る競技、野球。

 


「競争要素を含んだ闘争である。」とは集団競技でありながら、個人要素が強いこと。更には、同時空間でプレーしていながら直接的な妨害ができない。からである。


故に野球では、セオリーがまかり通る。

例えば、ランナー1塁での送りバント

1塁側に転がすのがセオリーである。

それはなぜなら、1塁手がベースに付いているため前に出られない。だから1塁側に転がすのだ。

 


逆をいえば守備側は1塁側に転がしてくることはわかっている。素人からすれば、それがわかっているのなら防げよ。となるが、そんなことは基本的にしない。それを防ぎにいくリスクが高すぎるからだ。


身体接触を伴う競技であれば、相手の意思が明確であれば阻止する事は可能だが、野球という競技においては阻止するリスクが高すぎる。もしくは、阻止できない場面というのが存在するのだ。


楽天石井一久監督がシーズン開幕前のインタビューで「攻撃における采配はあまり重要ではない。采配において重要なのは選手起用。特に投手の継投。」と語ったのは、野球における攻撃の采配というのは基本的にセオリーに従い、それを遂行できれば成功する。という事を理解しているからであろう。

開幕直前!石井GM兼監督インタビュー & 必勝祈願 - YouTube

 

よく言う「点を取った次の回に失点しない」とか「バントは一発で決める」とかいう野球界に残る、セオリーのフリをした謎の言伝えは、自らがコントロールできるものでは無い事から結果論以外の何者でも無い。


そんなことを言う指導者や、解説者を見るとうんざりする。

 

 

極めて意思を表現し難いスポーツ、野球。


スポーツにおける攻撃の定義は2つあると考える。


①得点やポイントを取りに行く行為。

②ボールコントロールが出来るか否か。


サッカーやバスケ、バレーやラグビーなんかを想像してもらえれば上記の2点が当てはまる。自らがパスを繋ぎ、得点を取りに行く。


しかし、野球においては②ボールコントロールができない。


実際にボールコントロールをしているのは"投手"である。つまり、得点を防いでいる側だ。


つまり、野球における攻撃は他のスポーツと異なり、投手の投げた球を打つという受け身である事が大きな特徴である。


その事から、野球は意思が表現し難いスポーツだと言える。

 


卓球のような野球


卓球において、弱い選手というのはボールを打たされるらしい。自らの意思では無く、反射的に撃ち返す。逆に強い選手というのは意志のある卓球をする。こういうスピンのボールを打てば、こういう球が返ってくる。そうすれば自分が決められる。まあ、こんな具合だろう。


そんな、弱者の卓球のような野球をしていると勝てない。というよりも、負ける可能性が飛躍的に上がる。


この野球という競技の特性を理解せずに、攻撃だ。打てばいいんだ。と草野球や体育のソフトボールみたいなことをやっていると、身体接触が無く、競争性を含む闘争競技であり、投手というボールコントローラーの能力が勝利に大きく関与し、意思が表現しにくいスポーツである野球においては相手が技術的に格下であっても負ける可能性が上がる。

その逆を私は「意思ある野球」と呼ぶ。

 


意思ある野球

 


では、野球において意思を表現できるプレーとは何だろうか。

 

意識を表現できるプレーとは下記のような定義である。

自らの主体的なアクションによって相手を動かすことができる。もしくは相手に妨害されることなく意思を表現できる。

 

そう考えると「守備シフト、バント(構えも含める)、走塁」精々こんなもんだ。

 

投手に関しては、自らの主体的なアクションによって相手を動かす事ができるが、打者という妨害が入る事から、今回は意思は表現し易いポジションではあるがグレーという事にしておこう。

 

だから、プロ野球の開幕前の監督インタビューや、高校野球のチーム紹介などを見れば、どこのチームも「足を使って」「今年は走塁を」というコメントが散見されるのは、そういうことだ。自らの意思でコントロールできるプレーというのはそう多く無いからだ。

 

 

偶然をデザインする


昨今、日本プロ野球でも目にするようになった大胆な守備シフト。素人が見れば、人が居ないのだからそこへ打てばよいと思うかもしれないが、これはそう簡単なものでは無い。

 

そして、更に人の心理的な影響が大きいだろう。行動経済学的な観点から言えば損失回避的な側面が大きい。

 


守備シフトを引いて、損失を食らうくらいなら、普通の守備シフトを引いてヒットを打たれた方が良いと考えてしまう。ましてやトーナメントの一発勝負の高校野球なら尚更だ。

 

そもそもなぜ、大胆な守備シフトなんてものがまかり通るかと言うと、野球において打者がボールコントロールすることは、極めて難易度が高いからである。


シフトの間を狙って打つことなど海堂高校でも無い限り不可能に近いからだ。※海堂高校とは野球漫画「MAJOR」に出てくる強豪高校である。


ただ、ここから逆説的な文章を展開する。

結論から言えば「それでも最低限、打つ方向、もしくはゴロかフライかは意思を持って打て」である。

 

打者というのは「自分の狙い球を、自分のタイミングで、バットの芯に当てる」ことを目的に打席に立つ。これをgood hitと呼ぼう。例えそれが結果的にアウトになったとしても、打者の満足度は高い。

 


しかし、野球というのは皮肉なもので「自分の狙い球を、自分のタイミングで、バットの芯に当てる」事が出来なくても、ヒットになるし、点数が入る事がある。これをbad hit と呼ぶ。

 


つまり、打者というのは「①GHH(グットヒットのヒット) ② GHO(グットヒットのアウト) ③BHH (バッドヒットのヒット) ④BHO(バッドヒットのアウト)」の順を目指し、打席に立つのだ。

 

(② GHO(グットヒットのアウト)よりも③BHH (バッドヒットのヒット)が後に来るのは、バッドヒットはコントロールできないからである事と、グッドヒットを目指してバッドヒットになる事はあっても、バッドヒットを目指してグッドヒットになる事は可能性的に少ないからである。)


しかし、一方でチームへの貢献度で言うと「①GHH ③BHH ④BHO ②GHO」となる。

 

ここからが重要であるが、私が思うにランナーがいる状況で、打者が目指すべきものは「④BHO ①GHH ②GHO  ③BHH」となる。

 

野球という競技は陣取りゲームだ。

BHOであっても進塁させることはできるし、得点する事もできる。

 

その偶然にもバッドヒットしてしまっても、勝利へ貢献できるように、グッドヒットを目指す。あらかじめ偶然をデザインしておく事が極めて重要なのだ。


繰り返しになるが、野球という競技の打者はボールコントロールが極めて難しい。(バットに当たる事すら補償できない)

 

しかし、それも相まって偶然に得点する事も珍しく無い。意思とは反した結果が好転することもある。

 

しかし、意思は表現し難く、ボールコントロールの難易度も極めて高いが、それを表現しようと、コントロールしようとしなければ、負ける確率は上がる。偶然を祈っているだけでは、不思議と負ける。何故だか負けるのだ。


偶然をデザインししろ。

 


結論


「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし。」の「勝ちに不思議の勝ちあり」とは能力のある者が偶然的に能力を発揮できた場合。もしくは相手が自ら負けてくれた場合のことを言う。

 

そして「負けに不思議の負けなし。」の負けを定義するものは

①相手にスキルの領域で戦われた。

 もしくは、意思ある野球をし、された。

②こちらが意思なき野球をした。

の2つに分類される。

 


よく言う「ミスが出たので負けた」は、勝てなかった理由にはなるが、負けた理由にはならない。

 

負けないためにどうするかが大事なのであって、「ミスをしない」は、成し遂げる事が約束できない。むしろ「ミスは必ず出る」。


「①相手にスキルの領域で戦われた。

 もしくは、意思ある野球をし、された。」

 

とは要するに相手が格上だったと言うことだ。最後の最後に勝敗を分けるのは技術である。お互いがスキルの領域を創り合い、そこで勝負して負けたと言うことだ。こればかりは仕方がない。

 


「②意思なき野球をした」とは、能力のある者が偶然的な能力の発揮を期待したが、偶然的に能力を発揮できなかった状況を指す。

 


つまり、野球における失敗論とは「偶発的な能力の発揮を望む事」であり、必要なのは「意思ある野球」をする事である。

 

そして練習では、それを可能にする訓練を積む事である。

 

「①相手にスキルの領域で戦われた。

 もしくは、意思ある野球をし、された。」で負ける事は本望であり、そんなゲームをしたのなら讃えたい。

 

しかし、ほとんどの場合"技術"で勝負を分けるには至らない。

 

大概が意思なき野球をして敗れる。

 

偶然をデザインし、洗練された意思を持ち、それらを表現させる事が野球という競技の指導者には求められるだろう。

 

 

 

菅野雅之

 

 

 

"それな"なんて言うな。

卒業生へ

 

 今年もまた春が来ました。新しい日常が日常化し始めているものの、未だに慣れる事ができずにいる自分もいます。

 

時間に追われていた日常が急停止した事で、時間が溢れ、それに溺れそうになる時があります。

 

強い孤独感に襲われ、急激に誰かに縋りたくなるなる時が私には定期的に訪れるのです。でも、例え誰かに縋って誤魔化したとしても、すぐにまた一人になりたくなることを。そしてまた追いつかれる事をどこかで理解しています。だから私はこの約1年間、孤独感を少しずつズラしながら生きてきました。そんな生き方を覚えました。

 

いずれ、精神と時の部屋から出る的な虚像を信じて。いや、それを信じずにはいられないと言う表現の方が正しいかもしれません。

 

 

 

 

 この前、たまたまマツコデラックスさんと星野源さんが対談している映像を見ました。二人は家に帰ると、とてつもない孤独感に襲われるそうです。しかし、それを話せる友達もいないと。正確には、「どうせ話してもこの気持ちは分かってもらえない。」だそうです。

 

朝から晩までテレビに出ていて、何万人もの前で歌を歌い、日本人なら誰もが知っているスターの孤独や不安や葛藤です。私なりに解釈を付け加えると「簡単に同情なんかされてたまるか。」って感じだと思います。

 

私には、この人達のように日本中から一挙手一投足を注目を集めた経験があるわけでは無いのですが、ほんの少しだけ。ほんの少しだけ、この気持ちがわかるような気がします。

 

きっとこれを読んでくださっている方の中にも共感できる方がいるのでは無いでしょうか。いや、きっと誰しもが、押し寄せる孤独感と戦い、不安や葛藤を抱え生きていて、誰かに分かって欲しいけれど、簡単に同情されたくもないような人生を歩んでいます。それは、大人でも子供であろうとも。みんな。

 

 

 子供が、大人に相談をしても「なんだそんなことか」と言われ、俺は努力したから大人になったんだと、資本主義的自己責任論の成功事例を列挙されるだけで、自分がより小さく感じるだけで、「どうせ話してもこの気持ちは分かってもらえない。」んです。大人には、わかりません。

 

 

 でも、大人にはわかってもらえなくても、わかり合える気がする相手が恐らく多からずいるでしょう。

 

もしかしたら私が抱えているモノと、この人が抱えているモノは同じモノなのではないだろうかと。

 

しかし、それは私に見えている空の青さと、あなたが見ている空の青さが、同じ青さをしていることが一生証明されることのないように、それらは同じであると一生証明できません。しかし、同じであると信じて止まない。

 

おそらくそれが"友達"とか言うやつです。

 

友達を大事にしなさい。とか、高校時代の友は一生の友だ。とか、当たり前のことを言うつもりはありません。

 

私がこの文章を通じて伝えたいのは「わからない」と言う事を前提として生きる事で、この世の中を少し寛容に生きていけるんじゃないかな。ということです。

 

テレビではタレントの発言全てにテロップが入れられ、ワイドショーでは誰もがわかるように数が減った、増えた。辞任か否か。

 

YouTubeSNSも、再生回数やフォロワーやいいねを増やすためには、わかりやすいコンテンツや内容を発信し、

 

受験勉強もわかる事が良しとされていて、わからないとは悪です。

 

しかし、本来難しいものは難しく、複雑なものは複雑で、わかり得ない事も世の中にはあります。

 

私には、部活が無くなった想いも、修学旅行に行けない想いも、浪人する想いも、将来に対する不安も、わかりません。

 

 しかし、誰しもが、誰にもわからない。簡単にわかられたくもない孤独や不安や葛藤を抱えている事を"わかり"、私とあなたが見ている空の青さが同じであることは"わからない"事を"わかり"生きてゆく事で、許せるモノが増えるかもしれないと思うのです。

 

ただ、隣にいるその人が、もしも同じ時間に、同じ空を見ていたのなら、ひょっとして同じ想いを感じていたのかもしれない。

 

でも、一生証明することはは出来ないけれど。

 

そして私も一瞬だけでも君たちと同じ空を見れたことを嬉しく思います。

 

 

 

卒業おめでとう。

 

 

菅野雅之

 

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さよなら"先生"。

 

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【Withコロナ時代の学校と先生】

 

ウーマンラッシュアワーの村本さんが言ってた。「わかったふりする事を仕事にしているヤツ。それは教師とコメンテーターだ。」と。

 

 

以前も書いたが、
僕は教育という言葉があまり好きではない。
先生と呼ばれるのもあまり好きではない。
そこにはどうも一方的で、上下関係があり、
先生は"分からない"と言う事が"悪"であるかのようなニュアンスが含まれているような感じがするからね。

 

 

しかしね。とうとう来てしまったよ。
VUCAどころの騒ぎじゃ済まない。
"分からない"世界が。"超予測困難社会"がね。

 

コロナちゃんが連れてきたこの世の中は、
先週テレビで言っていた"正解"や。
政治家が出した"正解"は、
今日の不正解になってしまうような世の中だよ。誰もこの先どうなるかなんて分からない。

 

一つ分かっていることは"これまでの日常"は戻ってこない。という事だね。

 

「世界不思議発見」の収録で
全問正解して海外旅行券を手にしたけど
オンエアする日には、やっぱり1問外れてました。答えが変わっちゃったんです。
というようなもんだよね。
残念でした。野々村真さん。
(自分でも何を言っているのか分かりません。)

 

この前ね、Twitter幻冬社の箕輪さんがこんな事を言っていた。
「オンライン授業にすぐさま移行できないような学校から、そもそも教わる事なんてあるの?そんな学校に通ってたら時代遅れになる。」って。

 


かなり極端な意見ではあると思うよ。

 

僕も実際現場にいる人間だからさ。
ネット環境がどうとか、機材がどうとか、保護者の理解だとか、カリキュラムがどうとか、評価はどうとか。できない理由はいくらでもある。

 

でもね、そこじゃないんだよね。
少なからず僕は、この人がそういう意図で言っているようには感じなかったから、頭を引っ叩かれた感覚を覚えたんだ。

 

もっと根っこの、人としての覚悟というか、生き様みたいなところをド突かれたんだよね。

 

だから、なんか僕は悔しいけどグウの音も出なかった。(Twitterのタイムラインを流れる動画と会話してるヤバいヤツです)


【先生ごっこ


偉そうに「そんなのは社会に出たら通用しない!」と言っている先生。

 

あなたの言う"社会"は、あなたの生きた"社会"じゃない。今、僕たちが生きている"社会"こそが"社会"だし、これからも"社会"は変わり続けていく。

 

だとしたら僕もあなたも、この社会に適応していかないといけないんだね。

 

この現実世界で、無い物ねだりしたって仕方が無くて、もうこの現実世界で生きていくしかないんだよね。

 

教師のお面被ってさ、"分かったふり"して先生ごっこやっててもバレなかった時代はもう終わりなんだよね。

 

だってこの世の中の現状で、この先がどうなるか?を"分かっている"事の方が不自然であり、断言するヤツの方が怪しいからね。

 

だから"先生ごっこ"するのは、もう辞めた方がええと思うぞ。

(#キャー。突然の不意打ち関西弁素敵ー。そもそもこれが関西弁なのかも分からない不安な感じも素敵ー。)

 

【コロナちゃんが教えた学校の価値 】


キングコング西野さんの言葉だけど
「オンラインは実力を顕在化する」って。

 

例えば、君が通っていた塾。その塾を選んだ大きな要因は「家から近いから」でしょ?

 

学校もそうだよね。

 

ましてや学校選択なんてのは、その雰囲気とか、ブランドとか、"なんか良い"っていう言語化・数値化できない要因が大半を占めていて、数値化できるのはテストとか成績くらいだよ。

 

なにが言いたいかって、
これまでの時代は"誰から教わるか"なんてのは学校選びの中で、最も優先度が低かったってこと。みんな"どこで学ぶか"で学校を選んでいた。

 

ところがどっこい。コロナちゃんは時代を動かそうとしているよ。なぜかって?オンライン授業に移行した瞬間に比較対象は林修になるからね。

 

"教室"というクローズド・オブ・クローズの環境では、権力と年齢を武器にキング・オブ・キングでいられた先生も、オンラインになった瞬間に比較対象は林修であり、中田敦彦だ。

 

完全なる実力主義に変わるわけだよ。

 

そうなると学校選びや、授業選びには"誰から教わるか"の要因が大きくなる訳だよね。

 

そういう時代が来る、その方が健全だ、そのような未来にしたいと僕は思っているよ。

 

僕がSNSを実名・顔出し・カギなしでやっている理由もその辺にある。

 

【"役に立つ"レースからの脱却】


さぁ。ここからもっと踏み込んだ話をするよ。

 

じゃあ学校の教員も「オンライン授業をやろう!」って言って、教室でやっていた授業をそのまんまオンラインにしたり、有名塾講師のマネをして"役に立つ"知識を与えようとすると、林修のコピーが全国に何体も現れる事になるね。

 

そうするとそれは、オフラインでは価値があったかもしれないけど、オンラインなんだから本物の林修にしか価値は無くなるよね。林修の真似をしても林修は超えられないから。

 

もっと現実的な話をするとスタサプのマネをするならスタサプで良いじゃん。って話。

 

学校の教員がよーいドンから10年くらい遅れてスタート切って同じレースに参加しても勝ち目は無いんだよね。ここを見誤るとヤバイ。

 

そんな"役に立つ"人はトップの1人で十分だから。

 

でもこれは、コロナちゃん時代が来たからそうなった話ではない。 だいぶ前からそんな事は分かっていたはずだね。

 

この前、友人のYouTuberに言われたよ。
「なんか、オフラインではしっかりとした教育活動が行われていた前提で話してるけど、そもそもオフラインでもまともに教育なんかできてねーだろ。」って。 (しょうもねぇルーティン動画ばっかりあげやがって。だからNIKEのスニーカー当選しねーんだよ。笑)

 

でも、彼の言っている事は確かだ。

 

学習塾もあるし、スタディーサプリという有料動画コンテンツサービスだってある。しかもそれを多くの学校が導入している。

 

知識を教える事のメインが学校で行われていて、その補助として塾やオンライン授業があった旧来の形から少しずつ変化してきていたのがこれまでだよね。

 

ずっと問われていたはずだった。

 

"役に立つ"から"意味がある"へ。

 

それをコロナちゃんが顕在化しただけだよね。

 

プリントを配布して、ドリルをやらせれば、評価はしやすいかもしれない。それこそ平等だからね。

 

でも、本質は違うはずだ。
そもそも平等な部分と平等でない部分があるはずだからね。間違えちゃいけないのは教育を受ける権利は平等であって、全員が同じことをする事ではない。

 

だからこそここで僕は言いたい。


「さよなら"先生"。」

 

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【こんにちは"先生"】


4月17日に格闘家の青木真也選手はこの状況の中、試合をしたんだよね。賛否はあったみたいだけど、その時こんな事を言っていたんだよね。

「格闘技を通じて、生き方とか、思想信念を伝えるっていうことだったら、今こそ必要な訳じゃん。今闘わないで、いつ闘うんだって。」 

 


そう。今なんだよね。生き方とか思想信念が問われているのって。

 

「こんな事やってていいのか。」「何が正しいのか分からない。」「この先どうなるか分からない。」この状況だからこそ、自分というものを"表現"できる。行動が表現に直結するのは今なんだよね。

 

なぜかって、大半の事は"やらなくてもいい"からだよ。

 

はっきり言うけど、別にオンライン授業なんて、わざわざやらなくてもいいんだよ。こんな事。

 

時間割いて、報告して、資料作って、動画撮って、編集して、告知して、リスク背負って。

 

でも、このやらなくてもいい状況でこそ、菅野雅之の生き方や思想信念が問われる訳でしょ。

 

このやらなくてもいい状況の中で、やるという選択をしたこの生き様こそが教育だと思うんだぞコラ。(#キャー。いきなりオラオラ素敵ー。)

 

こんな事言うと怒られるかもしれないけれど、良くも、悪くも、公立学校の教員なんてのはさ自分の資本で直接的にマネタイズしてないわけ。自分でお客さんをを呼んで商売してないんだ。だから、やっても、やらなくても給料なんてのはほとんど変わらないんだよ。

 

でもね。だからこそ、"やる"という行動こそが価値になるし、その生き様こそが"先生"なんだと思う訳だよ。

 

本物の"先生"という仮面を被っているのはオレなのかもしれないね。

 

こんにちは"先生"。

 

【あとがき】


この文章の最大のオチは、こんな偉そうな事を書いているのが25歳の3年目のペーペー教員だってこと。笑えるよね。

 

先輩教員に見られたら「生意気だ」と思われるかもしれないね。

 

でも、意見を言うというのはそういう事だし、行動するというのはそういう事だと思う。
アンチの裏には、ファンがいて、ファンがいれば、アンチもいる。

 

先出しジャンケンするってのはそういう事だね。

 

そして、最後に今回オンライン授業をYouTubeで公開したのにはもう一つ理由がある。

 

それは同志を持つ教員へのメッセージでもあるんだ。今回ありがたい事に、菅野の職場の管理職には応援していただいている。

 

でも、そうもいかない学校があるのも事実だ。だからこそ菅野を"言い訳"として利用してもらえたらと思い、ファーストペンギンとして飛び込んだ。

 

もちろん、全員がオンライン授業をやる事が正解では無い。ただ、やりたいけどくすぶっている人がいるのは事実だと思う。そんな人の背中を押せたら菅野はハッピーである。

 

今回も読んでいただきありがとうございました。

 

独自性・再現性・持続可能性の高いオンライン授業へ。時代は変わる。

 

 

菅野雅之

 

 

 

※オンライン授業 第一回「”男”と”女”を考える。」

https://youtu.be/5nlRLxKzxrc


「オンライン授業はどう行うべきか?」

https://youtu.be/QvlC4kW7pLw

 
 

 

"愛"と"恋"と"性"【後編】

 

昨日の【前編】に引き続き、読んでいただきありがとうございます。

※前編はこちら

"愛"と"恋"と"性"【前編】 - 若人の考えていること。

 

まぁ。恋愛研究所代表の菅野から

お前たちに1つアドバイスするとするなら。

 

「絶対に"追うな"」だな。

 

前編でも言った通りだが、

"追う"という行為は自ら戦闘能力を

相手よりも下に示す行為だからな。

そんな自分より戦闘能力の低い相手には

魅力を感じない。

 

なぜなら"自己ロマン"の投影だからな。

 

「愛情表現はストレートにした方が良い」

ってのは嘘だからな。盲目的に信じるなよ。

そこのモテないヤツ。(欧米かぶれの自称モテコンサルの友人が、実際に僕にしたアドバイスだ。)

 

あれは関係性が出来上がってからの話であって、付き合ってもいないのに「好き、好き」言ってたらドン引かれるからな。(全然実体験じゃねぇからな。得意のスクショでここだけ切り取って送るなよ。)

 

まぁ冗談はさておき、ここから本題に入る。

 

[第五章]"性"を考える

 

しかしね。

そろそろ感じてると思うんだけど、

一口で恋愛と言ってもね。違うんだよ。

 

"男性"と"女性"で。

 

男女雇用機会均等法やLGBTQなど

"性"に関する様々な議論が行われている

現代において、このように"男性"や"女性"といった二項対立的な議論は避けた方が良いのかもしれない。

 

しかし、こんな時代だからこそ。

 

"男性"と"女性"の違いをあえて問うてみたい。

 

これまで生きてきて、そして恋愛をしてきて、疑問を抱いてきた事はないか?

 

なんで男って浮気するの?

なんで男が告白しなきゃいけないの?

なんで女ばかりが「結婚は?」って聞かれるの?

なんで女って「好きアピールはするけど自分から告白はしないなぁ」とかインスタで偉そうに言ってんだこらぁ。(ハァッ。ハァッ。ハァッ。申し訳ない感情的になってしまいました。)

 

これには"性"が密接に関わっているからなんだ。

("密"がついているけど多分大丈夫だよ)

 

今から大事な話をするね。

 

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"男"と"女"

 

"精子は新しく作られる"

"卵子は新しく作られない"

 

男性は"授ける"

女性は"授かる"

 

男性は"より多くの子孫を残したい"

女性は"より良質な子孫を残したい"

 

男性には"選択権がある"

女性には"拒否権がある"

 

よって

 

男性は関係をもった人を悪く言う。

女性は関係をもった人を良く言う。

 

男性は関係を持てずフラれた相手を良く言う。

女性は関係を持てずフラれた相手を悪く言う。

 

テラスハウス

1人の男性(りょうさん)の事を、

3人の女性が意識してる時期があった。

 

結果、誰一人として形にならなかった。

(明確にフラれてない人もいるけど、結果としては形にはならなかった。)

面白いのが3人とも好意をもっていたのにも

関わらず、部屋でのガールズトークでは

3人してその男性の悪口を言うというシーンがあった。これは典型とも言える例だよね。

 

一方で男は、フッた女を悪く言いがち。

(オレはそんな事ないよ♡)

高校の同級生と飲んだ時に、

「あれ、最近インスタに写真載ってないけど別れたの?」と口火を切ると、そこからは結構エグい話が始まる。

これは選択権の行使だよね。

 

だから別れても友達でいようね♡

って言うのはだいたい女の方で、

 

それにYESと答えるのは肉体的快感を得るためだけにセックスをしたい男だと思うよ。

(超完全なる個人的な偏見です。エビデンスはございませんご了承下さい。)

 

"最低な男"と"綺麗でいたい女"
 

"選択権"と"拒否権"

これをどれだけ行使できるか。

という事を無意識にしてしまっている事に、

そして、それに振り回される事に、

時々嫌気がさすね。

 

遠距離恋愛

彼女は彼に会いたくて会いたくて震えていた。

クリスマスに半年ぶりに彼に会える。

彼の好きなレストランを予約し、

夜景の見えるホテルも予約した。

そして互いにプレゼントを交換した。

そしてロマンチックが最高潮に達した時。

彼は言った。「別れよう」

(おぉーーーい)

 

想像しただけでも涙がでるよ。

 

男は"選択権の行使"。

つまり、他にもっと惹かれるメスがいれば

これを行使する。

 

男は、いつも最低だ。

 

【綺麗なお姉さん】

綺麗なお姉さんに恋をした。

誰がどう見てもモテる。

そして"優しい"。

2人でデートも行くし、向こうから連絡だって来る。え?これもう付き合ってんじゃね?

(勘違いで舞い上がる男)

よし。男なんだからはっきりさせよう。

勇気を振り絞って告白した。

「え?そんなつもりないよ?これからも友達でいようね♡」(なんじゃそらぁーーーー)

 

※全然実体験じゃねぇからな。

 

女は"拒否権の行使"。

オス鳥にどれだけ"求愛の舞"をさせられるか。

それでメスの価値を測るのだろう。

 

そういう女はだいたい、歳上のとか、役職が上とか、お金持ち。という"一見"恋愛偏差値が高く見える男と、よろしくやるんだよな。(これまた超完全なる個人的な偏見です。ここだけスクショしてグループLINEで回さないでください。)

 

女は、いつも綺麗でいたいんだ。

 

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【第六章】"愛"を考える
 

"恋"や"好き"や"結婚"や"男"や"女"や"セックス"や"欲求"について考え、因数分解してきた。

 

人はそれぞれ、好きなタイプや、恋愛や結婚に対する考え方、性的指向がある。

 

"条件"があるとも言えよう。

 

しかし、愛に"条件"などというものは無いという者もいるだろう。

 

苫野氏はこう言った。

無条件の愛とは、誰かを愛するのに

条件は必要ないという意味ではない。

それは、ひとたび誰かを愛しはじめて、

その愛に条件などないと

意思しうるものなのだ。

「愛」より引用

 

そう。全ての人を愛せ。というような人類愛的な事ではない。

 

タイプもあるし、ストライクゾーンもある。

偏差値という自己認知と他者評価もある。

 

愛の入り口の1つに恋がある事は確かだ。

しかし、そればかりでは無いのも確かだ。

親の子への愛。教師の生徒への愛。

 

私自身"愛とは何か?"と問われて

鮮明に言語化はできない。

 

しかし、恋を理解し取り除く事ができれば"愛"が少しずつ、型抜き的にぼんやりと浮かび上がってくるかもしれない。

 

 

【第七章】それでも僕らは生きている
 

愛が無くても子どもができてしまう。

愛があっても子どもができない場合もある。

 

現代は"性"に関して寛容になったのか、

窮屈になったのか。

 

変わる事もあれば、変わらない事もある。

 

男性は子どもを産む事はできない。

それは女性の体を持ち、女性として生きていく事を決めた人の義務ではなく権利だし、前述した通り、結婚は制度だ。

 

女性の社会進出も選択肢の一つとなった。

 

磯野家や野原家や野比家のよう家庭を築く事は、あくまで選択肢の一つだ。

 

"平等"とは"同一"では無い。

"平等"は"違い"から始まる。

 

同じだと叫ばれている背景には

"違い"があるからで。

まずは僕たちはそれを理解しなくちゃいけないよね。

 

いつでも過剰な反応をして、

キーッと怒っているのは、

事実を無いモノとしたり、同じモノであろうとするからなんだよね。

 

それを恋愛という例を通して考えたかった。

 

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あとがき

 

それなりにブログを書き続けてみて、

バズるブログもあれば、

バズらないブログもあった。

 

バズると800くらいのアクセスがあって、

バズらないと100くらいしかアクセスが無くて凹んだりもした。

 

でも、バズらなくても100人には届けられていると思うと嬉しかった。

 

今回も最後まで読んでくれてありがとう。

 

今読んでくれている"あなた"は恐らく"遠い誰か"では無く、僕の事を知っている"近くの誰か"なんだと思う。わからないけどね。

僕の友人なのか、恋人なのか、定時制の生徒なのか、野球部の生徒なのか。

 

例え、同じ内容の話を"遠い誰か"がしていたとしても、それが芸能人だとしても"近くにいるあなた"に響くのは"近くの私"のメッセージである事もあったりする。

 

今回は恋愛について、面白おかしく僕の持論を交えながら書いた。

 

恋愛のディスカッションは誰でも参加しやすいからね。

 

でも僕のが一番みんなに問いかけたかったのは

"性"や"社会"や"平等"についてなんだ。

 

恋話は一つの手段だった。

 

様々な変化をしてきたこれまで。

その中で変わらないものもあった。

 

そして"今"時代は大きく変わる。

普通の事が普通じゃなくなるだろうね。

 

知ってる事で余裕が生まれる。

そして知らない事は知らないという。

 

いつまでも教師のお面つけて、知ってるふりした演技ができるのも終わりかなと思ったりもするよね。

 

 

 

 

菅野雅之

 

※文章で表現した男性・女性は身体的性での男・女です。

※男と女以外にも様々な性的指向がある事は理解した上で今回はこの2つの性を取り上げてました。

 

参考文献 苫野一徳 「愛」

 

愛 (講談社現代新書)

愛 (講談社現代新書)

  • 作者:苫野 一徳
  • 発売日: 2019/08/21
  • メディア: 新書
 

 

 

 

 

 

 

 

"愛"と"恋"と"性"【前編】

【愛と恋と性】


今回は、いつの時代もお前たちの頭を悩ませている"恋愛"について、モテスギ君こと、

菅野恋愛研究所代表である

菅野がお前たちに"恋愛とは何か"について教えてやる。

 


しかしだ。注意が必要だ。というのも、この文章を読んでしまったからには、もう"西野カナ"には戻れない。

 


友達がキラキラして話している恋話に素直に「わかるー」とは言えなくなるからな。

 

しかし、それと引き換えに恋愛に対する無駄な悩みは消えるだろう。

 


その覚悟がある者のみ先に進んでくれ。

 

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さあ。ここから序論に入っていく。

 


どの時代も友達に相談した内容ランキング

第一位に君臨し続けている"恋愛"。

(※菅野恋愛研究所調べ)

 


俗に言う"恋バナ"にお前たちは一喜一憂し、いつも頭を悩ませている。

 

おそらくこの恋愛に関しては、

太宰治いや、織田信長いや、卑弥呼くらいの

時代の人も同じように"恋愛感情"という、

ドキドキして胸が締め付けられるような

"あの感じ"を味わっていただろう。

(あ、これ大事だよ。テストに出ます。)


そして、もっと言うなら

人間のみならず生物全般に共通する部分も多いのは確かだ。

 

それでは"愛"と"恋"と"性"を考えよう。

 

 

[第一章]恋愛と結婚とセックスを考える

 


現代は、

 


好きな人と恋愛して

好きな人と結婚して

好きな人とセックスをする

 


という3位一体を「善」としている雰囲気を感じずにはいられない。

 

芸能人が不倫をすれば袋叩きにし、

長年付き合っている彼氏彼女がいても、

結婚に踏み込もうとして破局したり。


しかし、

そもそもこの3つが全て揃っていなければならないという時代はそう長く無く、

むしろごく最近の話である。

 


少し前まではお見合い結婚が一般的であったし、日本には混浴という文化もあった。お祭りの日は無礼講で不特定多数の人と性交をかわした歴史もある。

 


つまり、恋愛と結婚とセックスは互いに分離していたのだ。

 


では、そもそも結婚という制度ができたのはいつか?というと、これは人間という生物が"定住"し始めた頃だと言われている。

 


狩猟採集民族から農耕民族へ移り変わる事で、人間は定住することができるようになった。

 


そしてそこでは財産を貯蓄するということができるようになった。

 


そこで生じた問題が1つある。

それは"相続"をどうするかということである。

 


せっかく集めた"財"を

自らの命と共に失ってしまう事は

本望ではなく、後世に、そして"誰か"に

残したい"と思ったのであろう。

 


しかしそこで1つ問題が発生する。

そう。"誰に"をどう判断するかである。

 


私があの人から最も愛されていたわ。

いいえ。私はあの人の子供よ。

いいえ。私はあの人と約束をしていたわ。

 


というように。

 


つまりそこには社会的に認められた

"制度"が必要であったのだ。

 


そこで生まれたのが"結婚"という制度である。

社会的に認められた相手、

もしくはその子供に財産を相続するための制度。それが結婚であった。

 


では、子供はどうしていたか?

 

今のように医療技術が発達していなかった当時は出産とは女性にとって大きなリスクであった。(今もその事に変わりはないけど)

 

そしてそれは人間のみならず生物全般に共通する事である。

 

無事、出産することができたとしても"大人"まで育てる事は医療技術の観点やその他の要因からも困難を極めた事は、容易に想像ができる。

 

その事から村や集落で子どもを育てたと言われている。(その村の人口が減るという事は、その村の死活問題だからね)

 

パートナーが親として関わるのは子供が生まれてから2〜3年といわれている。

 

その後、女性と男性の関係は解ける。

一定期間のみだったという事である。

 


その期間を終えると別のパートナーとの関係をもち、女性は生涯で計5〜6回の出産をしたという。

 


驚くかもしれないが、遺伝子に変化をもたせ、人類の継承という観点からすれば必然だったのかもしれない。

 


※様々な諸説があります。

 


恋愛においても、現代の意味する恋愛とは違い、基本的には結婚後に関係をもつ事を恋愛と呼んだ。つまり、現代の言葉でいう"不倫"に位置づけられたモノである。

 

理由は前述の通りである。

そもそも結婚は制度であり、セックスも恋愛とは分離されていた。逆に、ある意味でセックスと恋愛は"同じモノ"と捉えられていたのかもしれない。

 

つまり、恋愛と結婚とセックスは分離されていたってこと。

現代のような結婚を頂点とした三位一体構造が生まれのは超最近だってこと。

 

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[第二章]"恋"を考える

 

つまりだ。上記のことからもやっぱり
「男は"SEXをしたいという欲求"と"この人が好きという感情"を勘違いする生き物だ」という事は言える。

 

なぜなら恋愛とセックスは分離されていて、

ある意味では同一のモノであったからだ。

 

しかし、そんな事を言うと

「オレはそんな事はない!」と言い張る

清純派若手俳優みたいなツラをした

ヤツが一定数出てくる。

 

そうだ。お前の事だ。

 

それではお前に聞こう。

(ここからは性別は問わないぞ。男も女もゲイもバイもレズもだ)

 

 

今、好きな人の事を想像しろ。

 

 

 

 

 

(おい。鼻の下伸びてるぞ。笑)

 

問うぞ。

「なぜ、その人の事が好きなんだ?」

 

 

 

 

 

(顔が赤くなってるぞ。是非ともZOOMでこのやり取りをしたいものだ。ハッハッハッ。)※まだZOOM使った事ないんだけどね。

 

 

 

 

答えが出たか?

 

オレは悪いが、お前たちが答える内容など容易に想像がつく。

 

どうせ。

「一緒にいて楽なんだよねー。」とか

「なんかノリが合うっていうか。」とか

いう薄っぺらい理由だろ?

 

 

そうなんだよ。そこなんだよ。

 

安心しろ。誰も、

なぜその人の事が好きなのか?

なぜ恋に落ちたのか?

なんてのは答えられないんだ。

 

そう。いつも僕らは適当なそれっぽい事を言って誤魔化すんだ。

 

(私はクシャッて笑うあの人が好き。とか。あの人はいつも僕に刺激をくれるんです。とか答えた人はちょっと待ってて後でそこは掘っていくから)

 

それはなぜか?

 

恋とは自己ロマンの投影であり、

"あちら"と"こちら"の一致可能性

苫野一徳 「愛」より引用

 

だからだよ。

 

今から詳しく説明するね。

 

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[第三章]恋愛とはサイエンスである

(※不覚にも自分でタイトルを書いておきながら、書きながら笑ってしまった。)

 

恋ってのはさ運命的で偶然的で不随意的なモノって解釈されてたりするんだけど、実は科学で証明されているところも多いんだよね。

 

例えばね。

好きになる相手。

 

まぁ街を歩くカップルを見れば分かるけど、

だいたい同じようなレベルの、同じようなタイプの人が手を繋いで歩いているね。(オレの目にはスカウターが付いているよ)

 

これは科学的に証明されているらしく、

自分の恋愛市場価値と同じ、もしくはちょっと上のレベルの人を好きになりやすいらしい。(付き合ってからの幸福度も高いんだと)

 

つまり、モテ偏差値で57だと自己認知している人は40や80と判断した人の事は好きになりにくいという事。(他人の評価じゃなくて自己評価ね)

 

ほんでだ。

 

よくさ、合コンとかで審判が見たら偏差値は40対65だな。みたなのってのがあるらしい。

(オレは合コンなんてのは行ったことが無いから分からないけど)

 

そうなると当然あまり盛り上がらないわけよね。んで、おもしろいのが終わり頃になるとなぜか、偏差値40の側が「あんたらとなんか二次会に行かないわよ」みたいな雰囲気を出してくる。

(オレは合コンなんてのは行ったことがないから分からないよ。)

 

それはなぜかっていうと

①そもそも自覚している偏差値が違うから恋に落ちにくい

②"可能性"が0に近いから恋に落ちない

 

である。つまりね。女の子が言う優しい人がタイプなの。とか。優しくされるとキュンとする。は"可能性"だ。

 

そう"可能性"。これこそが"恋"だ。

 

[第四章]"恋"のまとめ

恋愛感情の構成要因は3つ。

 

①欲求②虚像③可能性

 

①「欲求」

先ほど説明した通り、性欲に代表するもの。

承認欲求や帰属欲求もそうだろう。

 

②「虚像」

ってのは自己ロマンだよね。

タイプとも言えるかな。

 

背が高くて、筋肉質で、真面目で、面白くて。

安定した仕事についていて、お洒落で。

そんな人が側にいる。(オレやないかい。)

 

そして、休みの日には2人でお洒落なカフェに行って、みなとみらい辺りでショッピングするんだ的な。(オレやないかい。)

 

これが自己ロマン。

 

この自己ロマンに虚像を近づけるんだよね。

ため息のような情報さえも原料に。

 

その人がコーヒーを飲んでるだけで。

その人が横浜の近くに住んでいるというだけで。

 

back number  高嶺の花子さん

「好きなアイスの味はきっと」ってヤツね。

 

③「可能性」

そんな人がこの世に実在し、ましてや私のすぐ手の届くところにいるではないか。

 

たまに目が合うし、LINEだって返ってくるし、ぽん酢好きは共通だし、瓶ビールだって交換して飲める。

 

この"可能性"にドキドキするんだよね。

 

つまり

恋とは自己ロマンの投影であり、

"あちら"と"こちら"の一致可能性。

 

この言葉につきる。

 

(ちなみに自称モテコンサルタントの友人がいて、そいつのスカウターは業界一らしく、僕を計測してもらったところ偏差値57。自称68だぞこら。)

 

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今回はここまで。【後編】に続く

 

 

 

 

 

 

菅野雅之

アスリートと言語

[体育会系が好き]

 


なぜだろう。

僕はアスリートが好きだ。

 


スポーツをしている人、スポーツをしていた人に魅力を感じる。

 


そしてそれはなぜか、嗅覚的なもので分かってしまう。

 


例えそれに言語での説明が付け加えられたとしても、魅力的に感じていたものが、ひっくり返る事はない。

 


「僕、学生の頃は野球をやってたんですよ。」と言われても、どれくらい本気でやっていたかは、やっぱり嗅覚で分かってしまう。(超個人的主観でしかないんだけど)

 


僕が幼い頃からスポーツをしていたからなのか、今もスポーツに関わっているからなのか。

 


それも要因の一つではあると思うんだけど、どうもそれだけでは無いような気がしてならない。

 


今回はそれを言語化していく。

 

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[能力総動員体験]

 


この前、RIZINの特集番組を見てたんだよね。これがさ、痺れるんだよ。

 


格闘技なんかはさ、特にそうなんだけど

「やるか、やられるか」の世界なんだよね。

 


ケガなんてのは当たり前で、下手するとリングの上で命を落とすリスクだってある。

 


しかも、あの人達はそれで飯食ってんだよ。

普通じゃないよね。

 

 

 

試合前は、恐怖と不安に怯えて、緊張で足が震える。

 


北岡悟選手の入場なんか見れば分かるけど、完全にハイになって、もうイッちゃってるんだよね。

 


勝てば、喜びと興奮で体が痺れる。

 


負ければ、悔しさと情けなさで、大人が本気で泣くんだ。

 


こんなのって日常を普通に生きてれば経験できるもんじゃない。

 


"知力"と"精神"と"体力"を総動員して、人生を懸けて戦う。

 

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その人の人生の中で"1番強ぇ今"がぶつかるんだよね。

 


GO三浦さんが言ってたけど

"人間が能力総動員する瞬間に人は感動する"って。

 


その"能力総動員"した経験の有無ってのは、

人を豊かにするのかもしれない。

 


そしてそれは"分かる"のかもしれない。

 

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[共同身体性と共通感覚]

 


そう"分かる"んだよね。

言語を介さずとも。

 


この言語を超えたもので通じ合う共同身体性。これがスポーツをしていた人の魅力だ。

 


この前、宮台真司さんが言っていたけど

「共同身体性の欠如は人間をクズにする」って。

 


これは野外学習であったり、スポーツであったり、セックスであったり。

 


これらの共同身体性と共通感覚をどれだけ体感できるかが人の魅力を引き立てるんだと思う。

 


なぜなら僕らは、"自分が語れること以上にずっと多くのことを知っている"からね。

 


だからアスリートの言葉は魅力的なんだよね。

 


だから青木真也選手の言葉は美しいんだ。

だから本田圭佑選手の言葉は強いんだ。

だからイチロー 選手の言葉に前のめりになって、かじりつくんだよ。

 


だからあの瞬間に感じた、感情や、体の震え、体の痺れ、汗や涙の温度。それらを知りたくて、聞きたくて"インタビュー"するんだ。

 


だから青木真也

「35歳になって好きな事やって、家庭壊して1人ぼっちで格闘技やって、どうだお前ら羨ましいだろ」という言葉に震えるんだ。

 


だから北岡悟

「明日からまた生きるぞ」に背中を押される。

 


この"言語"以外のモノで繋がり、感じ合う共同身体性と共通感覚。だからこそ"言葉"が磨かれる。

 


格闘技でも、球技でも、相手とも、味方とも、なにかを感じ合っている。そしてそれはお互い一致しているかは不確かではあるけれど、間違いなく共通している。

 

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[スポーツの価値]

 


スポーツの価値を問われた時に、

チームワークとか、思いやりとか、感謝の気持ちとか、礼儀挨拶とか言う人が多いんだけど、どうも僕はしっくりこない。

 


そんな薄っぺらいモノじゃないと思うんだ。

 


足を震わせ、我を忘れるほどに熱狂する"能力総動員体験"

 


言葉以上のモノで相手と仲間と繋がる"共同身体性と共通感覚"

 


これがスポーツの価値であり、魅力だと思う。

これらの経験が人を魅力的にさせるのだと思う。

 


勝利至上主義に教育的意義はあるのか?と偉そうに言ってる人がいる。

 

確かに勝利至上主義だけでは教育的意義は無いのかもしれない。

 

しかし、"勝利"を捨てたスポーツにもまた、教育的意義は無いのでないだろうか。

 


あなたは能力総動員した経験はあるか?そして、言語以外の何かで繋がった経験はあるか?

 


もちろん、体を壊して、勉強もろくにせずに、挨拶もまともにできないような勝利至上主義には僕は真っ向から反対だ。

 


しかし、スポーツをする上での最も重要な"教育的意義"はここにあるんじゃないかと思う。

 

少なからず僕はそう思う。

 


今こうして考える"スポーツの価値"

またそんな日常が戻ることを願って。

 

 

 

菅野雅之

卒業生へ

 

 

卒業おめでとう。

 

今回のコロナウイルスの件といい、

あの件といい、色々な事があった学校生活。

 

ある意味で一生忘れないであろう物語を

生きている君たちへ。

 

菅野雅之が感謝の想いを込めて文章を綴ります。

 

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「時の流れ」

 

 

落合陽一さんが

「時間は"未来"から"過去"に流れている」

と言っていた。

 

この人は、頭の回転が普通の人より何倍も早い方なので、僕はこの人が何を言っているのか、

さっぱり分からなかった。

 

普通の人は時間というものを、

"過去"から"未来"へ流れているモノ

だと捉えているだろう。

 

僕もその一人だった。

 

過去は変えられる

 

ある日の事だ。

「マチネの終わりに」という映画を観た。

 

その劇中にこんなセリフが出てくる。

 

『人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでる。だけど、実際は未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える』

 

どういう事かと言うと

 

例えば、庭には大きな石がある。

幼い頃、私はそれをキッチンに見立てよく「おママごと」をして遊んだ。

 

だから私にとって、

その石はただの石では無い。

 

石を見れば、幼い日の事がふと蘇り、

私を愛してくれた母や兄弟をも思い出す。

愛着のある、そんな意味のある石である。

 

しかし、ある日の事

その庭にある大きな石に、私の大切な誰かが頭を強くぶつけた。大きな事故となった。

 

転んだ際にたまたまそこに、その石があったそうだ。

 

"あの石さえなければ"と私は強く思う。

 

あの日の私にとって、"あの石"は

幼少期を思い出し、家族の愛を感じる

とても"よい石"であった。

 

しかし、ある日を境に

"あの石"は、大切な人に危害を加えた

"無ければよかった"モノになってしまった。

 

このように、常に過去は変わってしまうし、

変えられてしまう。

 

そして、それと同時に変えることができる。

 

人は過去に意味を付け加えるために生きている。

 

そうなのかもしれない。

 

私は、

お前の練習は無駄だと言われた過去。

理不尽に耐えれば報われると思っていた過去。

肘を故障し、競技選手を諦めた過去。

 

に何かしらの意味を付け加えたくて

それらを、"ただの出来事"で終わらせたくなくて未来に夢を抱き、今を生きている。

 

過去に意味を与えたくて。

 

この時、初めて時間は未来から過去に流れ出すのだろう。

 

正しい転び方の説明書

 

自転車に初めて乗る時、人間は誰しもが転ぶ。

 

それは、できない事をしているからだ。

 

何かに挑戦しているからだ。

 

ここで大事なのは、

「絶対に転ばない」という努力だよ。

そして「絶対に転ぶことを恐れて逃げてはならないよ」君が本当に自転車に乗りたいのなら。

でも、「絶対に転ぶから」。

 

本気で自転車に乗りたいのなら、

絶対に転ばない努力をして、

転ぶことを恐れずに、

思いっきりペダルを踏もう。

 

転ぶ時は、笑って転ぼう。出川哲郎のように。

落ちる時は、笑って落ちよう。上島竜兵のように。

 

それがネタになる。そしてその全力で転んだ

過去に意味を付け加えながら生きていくんだ。

 

全力で転び、全力で落ちよう。

 

転んだフリをするな。

落ちる演技もするな。

 

助演男優賞悲劇のヒロイン部門」を

受賞するな。全力でペダルを踏め。

 

大丈夫。

 

 

感謝。菅野。

 

 

あとがき

 

だいぶカッコいい文章を書いてしまった菅野を許してください。こういう日にしか書けない文章があり、こういう日にしか届けられない文章があります。

 

本来なら直接会って話をしたかったところではありますが、今回は菅野らしくブログでメッセージを送りました。

 

ひょっとしたらブログの方が

伝わることもあるでしょう。

 

さぁ。もうイジりたくてたまらないのは、

君たちの顔を見なくても分かります。

 

毎回、僕がブログを更新した翌日には必ず、

ニヤニヤした顔をして、君たちはグランドで僕を迎えてくれたので。

 

もうその事がわかってからは、

わざと更新日をオフ前日からはズラしてやりました。いじられたがり屋です。

 

さっさと拡散してください。拡散させるのは得意でしょうから。笑

 

 

あらためまして卒業おめでとう。

 

僕が君たちに何かしらの"意味"を与えられたなら嬉しく思います。

 

ありがとう。

 

 

 

 

 

菅野