"それな"なんて言うな。
卒業生へ
今年もまた春が来ました。新しい日常が日常化し始めているものの、未だに慣れる事ができずにいる自分もいます。
時間に追われていた日常が急停止した事で、時間が溢れ、それに溺れそうになる時があります。
強い孤独感に襲われ、急激に誰かに縋りたくなるなる時が私には定期的に訪れるのです。でも、例え誰かに縋って誤魔化したとしても、すぐにまた一人になりたくなることを。そしてまた追いつかれる事をどこかで理解しています。だから私はこの約1年間、孤独感を少しずつズラしながら生きてきました。そんな生き方を覚えました。
いずれ、精神と時の部屋から出る的な虚像を信じて。いや、それを信じずにはいられないと言う表現の方が正しいかもしれません。
この前、たまたまマツコデラックスさんと星野源さんが対談している映像を見ました。二人は家に帰ると、とてつもない孤独感に襲われるそうです。しかし、それを話せる友達もいないと。正確には、「どうせ話してもこの気持ちは分かってもらえない。」だそうです。
朝から晩までテレビに出ていて、何万人もの前で歌を歌い、日本人なら誰もが知っているスターの孤独や不安や葛藤です。私なりに解釈を付け加えると「簡単に同情なんかされてたまるか。」って感じだと思います。
私には、この人達のように日本中から一挙手一投足を注目を集めた経験があるわけでは無いのですが、ほんの少しだけ。ほんの少しだけ、この気持ちがわかるような気がします。
きっとこれを読んでくださっている方の中にも共感できる方がいるのでは無いでしょうか。いや、きっと誰しもが、押し寄せる孤独感と戦い、不安や葛藤を抱え生きていて、誰かに分かって欲しいけれど、簡単に同情されたくもないような人生を歩んでいます。それは、大人でも子供であろうとも。みんな。
子供が、大人に相談をしても「なんだそんなことか」と言われ、俺は努力したから大人になったんだと、資本主義的自己責任論の成功事例を列挙されるだけで、自分がより小さく感じるだけで、「どうせ話してもこの気持ちは分かってもらえない。」んです。大人には、わかりません。
でも、大人にはわかってもらえなくても、わかり合える気がする相手が恐らく多からずいるでしょう。
もしかしたら私が抱えているモノと、この人が抱えているモノは同じモノなのではないだろうかと。
しかし、それは私に見えている空の青さと、あなたが見ている空の青さが、同じ青さをしていることが一生証明されることのないように、それらは同じであると一生証明できません。しかし、同じであると信じて止まない。
おそらくそれが"友達"とか言うやつです。
友達を大事にしなさい。とか、高校時代の友は一生の友だ。とか、当たり前のことを言うつもりはありません。
私がこの文章を通じて伝えたいのは「わからない」と言う事を前提として生きる事で、この世の中を少し寛容に生きていけるんじゃないかな。ということです。
テレビではタレントの発言全てにテロップが入れられ、ワイドショーでは誰もがわかるように数が減った、増えた。辞任か否か。
YouTubeやSNSも、再生回数やフォロワーやいいねを増やすためには、わかりやすいコンテンツや内容を発信し、
受験勉強もわかる事が良しとされていて、わからないとは悪です。
しかし、本来難しいものは難しく、複雑なものは複雑で、わかり得ない事も世の中にはあります。
私には、部活が無くなった想いも、修学旅行に行けない想いも、浪人する想いも、将来に対する不安も、わかりません。
しかし、誰しもが、誰にもわからない。簡単にわかられたくもない孤独や不安や葛藤を抱えている事を"わかり"、私とあなたが見ている空の青さが同じであることは"わからない"事を"わかり"生きてゆく事で、許せるモノが増えるかもしれないと思うのです。
ただ、隣にいるその人が、もしも同じ時間に、同じ空を見ていたのなら、ひょっとして同じ想いを感じていたのかもしれない。
でも、一生証明することはは出来ないけれど。
そして私も一瞬だけでも君たちと同じ空を見れたことを嬉しく思います。
卒業おめでとう。
菅野雅之