教師は夢を追ってはいけないのか。
どうも。スマホ一台でYouTuberになるという抜群のコストパフォーマンスで最先端を走りながら、YouTuber界の最後尾に並んだYouTuberの菅野です。
実は私、学校の先生をしております。
とてもびっくりですね。
この前まで僕は高校生で、
眉毛を剃ったら野球が下手になる教に入信し、
高校3年春まで髪の毛よりも
眉毛の方が長い18歳でしたが、
片思いの女の子にモテたくて
眉毛を整えた結果、
見事夏のメンバー外の制裁を喰らった純なヤツです。
そんなヤツが教育者になった訳ですが
教員者でありながら、
どうも"教育"という言葉がしっくりきません。
生徒と5つくらいしか年齢が変わらないのもあってか恩着せがましいしので、正直好きではありません。
これはおそらく
"教えられる事よりも、一緒にやれる事の方が多い"からです。
人生を100年で計算してみると
私はまだ24歳です。
年齢と教えられる事の量が比例するのなら、
私はまだ4分の1も教えられない。
逆に、4分の3も一緒に生きていける。
だとするなら、実績も名誉もない私ができる事は生徒の少し前で挑戦して失敗する事なんじゃないかと思っています。
というか、教育という言葉をこんな感じで都合よく解釈してます。
先日、デビュー初日に再生回数11回で
華々しくYouTuberデビューをした私です。
その中でも話しましたが、僕は
「文化とブランドで高校野球を変えたい」
「指導者という職業を確立させたい」
と夢を語り夢想家デビューも
同時に果たしました。
しかし、
そんな夢を語ると
「教員なのにそんな事言っていいの?」とか
「生徒に見られても大丈夫なの?」とか
「一緒に働いている方の失礼にあたらない?」
など心配してくださると方もいます。
でも、僕は18歳の少し前を歩き挑戦する事が教育だと思っています。
その方が多くを伝えられる気がします。
もちろん、なんでもかんでもやってみるという訳ではありません。
いくつかの基準があります。
その中の一つが"説明できるか"です。
なぜ、YouTubeをやるのか。
なぜ、SNSでの発信をしているのか。
説明できることは、つまるところ責任です。
説明ができれば失敗した時にネタになります。
そして成功へのタネになります。
先日、コービー・ブライアント選手や野村克也さんがこの世を去りましたが、それでも尚、私たちに彼らは何かを伝え続けてくれています。
それは彼が挑み続けていたからではないでしょうか。
答え合わせはまだ先です。
菅野雅之