22歳の若人です。 大学3年まで野球を続け春から高校の教員。 若人の意見をシェアできればと。

若人の考えていること。

スポーツや教育のことについておしゃべりしたい。高校教員になりたてホヤホヤです。

「普通や当たり前と多様性」

 

 

「普通はそんなことしないよねー。」

「そんなの当たり前じゃん!」

「常識的に考えてこうだよ。」

「〜ならこうするべき。」

 

無意識によく使ってしまわないだろうか。

私もその一人だ。

ただ、その事が原因で人間関係がこじれる事は多々ある。いや、人間関係がこじれる原因のほとんどが、こういった無意識な普通や当たり前の押し付けではないだろうか。

 

そんな普通や当たり前について今回は考えたい。

 

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普通や当たり前

 

悩み抜いた末、

私が普通や当たり前に関して出した答えは

「あるけど、ない。」である。

 

 

なにが「あって」なにが「ない」ないのか。

 

それは、各個人にはあっても、他人とすべて同じものはない。ということだ。

 

つまりそれが当たり前などないことを意味するかもしれない。

 

私は、当たり前や普通は個人の中で構築されるものであり、それらを構築していく要因は“人”が大半を占めると考える。

 

すべての人が「当たり前や普通なんてものはない。」という価値を持ち、「みんながみんなを認めよう。」そうなれば平和かもしれない。

 

しかし、少し現実的ではないし、当たり前や普通というものが存在する現在に、それを求めること自体、多様性がないのではないだろうか。

 

私は、普通や当たり前はあっていいと思う。

いや、あったほうがいいとさえ思う。

むしろ、それを持たずに生きることは不可能ではないだろうか。

 

自分の中の常識や普通があるから飛び越えたものが生まれるし、アップデートできる。

 

しかし、これは「個人」に限ってだ。

 

それを他人へ振りかざし強要する事はあってはならない。

 

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多様性とは

例えば、「私は同性婚をしない。」は全く問題ないが、同性愛を否定し、「異性と結婚すべきだ。」とののしることは、あってはならない。

 

それに加え、もう一方で対局にいながら問題なのが「同性婚についてもっとあなたは受け入れるべき」という考えだ。

一見、そういった事に対して理解があり、多様性があるようには見えるが、それを他人へ強要し、共感を求めるのは多様性に欠けるのではないだろうか。

 

落合陽一さんがこんな事を言っていた。

 

「多様性、多様性言ってる人が一番、多様性が嫌いなユーザーに寛容じゃない」

 

「共感性の高い"多様性主張ユーザー"ほどうざいもんはない。」

 

すごく考えさせられた。

 

普通や当たり前と多様性

 

他人の当たり前に関して、イラッとする事もあるし、嫌な思いをする事もあるだろう。

 

それに対して「あなたはこうするべき。」

と伝える事は上記に当てはまってしまう。

 

そんな時に「私はこう考える。」や「私はそれは嫌だ。」と伝えられると、言葉としてはストレートで少し攻撃的になるかもしれないが、こちらの方が人間関係がこじれる事は少なくなるのではないだろうか。

 

他人の当たり前を許容し、認められるようになると、関われる人が増える。

 

そうすると、当たり前や普通を構築する要因である“人”に出会う幅が増える。

 

それが自分の普通や当たり前をアップデートする方法なのではないだろうかと私は考える。

 

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DA PUMPの「U.S.A.」の歌詞にもあるように、“だけれど僕らは地球人”だ。普通や当たり前の基準を、家族や属するコミュニティ、地域や日本に留まることなく、地球にしてしまえば肌の色が違うのも当たり前、障害があるのも当たり前、同性愛も当たり前になるのではないだろうか。

 

23歳現時点での私の考えである。

 

 

この件に関しては是非みなさんの考えをお聞きしたいです。みなさんの普通に関する考えを聞かせてください。

 

 

菅野 雅之

 

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