性のタブーとリテラシー
"性"へのイメージ
「性」と聞いてみなさんは何をイメージするだろう。
「大切なこと、神秘的、美しい」
「男女、エロい、生殖」
「下品、、不快、汚い、タブー、恥ずかしい、悪い、卑猥」
それぞれ様々な感じ方があると思う。
これは私の個人的な感覚だが
なんとなく世の中ではマイナスなイメージの方が強いように感じる。
どこか恥ずかしくて、下品で、話してはいけない事のようで、時には不快に感じる人もいる。
でも誰かに聞きたくて、知りたくて、でも聞けなくて、教えてもらえなくて。
とても大切なことなのに。生きていく上で必ず関わることなのに。
少なからずわたし達は母親の体から産まれてきたのに。
私は保健体育という教科の教員として、
「性の話を聞くことに対して"不快"に感じる人がいる。」ということは理解しておかなければならない。
だからこそ
①性へのタブーの誤解を解く
②性に関するリテラシー(活用能力)を高める
ということを性教育を行う前に実践しなくてはならないし、性教育を通して伝えなくてはならないと思っている。
前置きが長くなった。
今回は「性」の何がタブーで、何がタブーじゃないのか。何が不快な性なのか?について書いていく。
性のタブー
性に対してのマイナスイメージが強くなってしまうのも、鼻の下が伸びてしまうのも少し偏った見方をしているからかもしれない。
例えば、性交(SEX)ひとつをとっても目的は様々。
以前、AV男優の森林原人さんと、はあちゅうさんが動画配信していたものを参考に、私なりに解釈し4つに分類した。
1.心の交流
パートナーとのより良い関係を築く手段としての性交。性交自体は目的になり得ないが、手段としては必要であり、それにより心が満たされる。コミュニケーションの延長。
それが故に寂しさを埋める、愛情を求め行われることもあるのが事実。
関連ワード(愛、コミュニケーション、寂しさ、デートDVなど)
2.生殖
子孫を残すための生殖のための性交。学校の性教育で扱うのは主にここである。
関連ワード(子孫繁栄、本能)
3.社会的価値
本来は社会的価値など無いが、イデオロギー的に世の中に伝わるもの。つまり、性交の経験の有無によって名前をつけられる、結婚の有無、年齢、サイズ、交際人数など。それを他人へ問うことによりセクシュアルハラスメントにつながる。
さらに、「〜と性交をした」と自慢する事により、それに価値を感じるコミュニティにおいては、その人の価値が上がるような現象がある。そのような価値を高めるための性交。
関連ワード(評価、性交経験の有無、年齢、セクハラ、コンプレックス)
4.肉体的快感
生理的欲求の性欲を満たすことを目的とした性交。多くの人がイメージするのはここだろう。ここを目的とした場合、ゴールは肉体的快感のピークになる。
関連ワード(性欲、テクニック、肉体的快感のピーク)
このように4つに分類した。
青で示した1、心の交流と2、生殖はおそらくほとんどの人が不快とは感じない部分。
赤で示した3、社会的価値はほとんどの人が不快に感じるタブーの部分。
緑で示した4、肉体的快感は話す人と聞く人の関係性によっては不快に感じるが、関係性によっては重要な部分。
地上波のテレビ放送をイメージすればピンとくるだろう。2の生殖は報道されるし、教育番組でも扱われる。ドラマや映画のラブシーンは、4の肉体的快感を表現したいんじゃなくて、1の心の交流を表現したいのであろう。
偏った見方をしている人はこれらを分けて考えられていない。もしくは1つの目的でしか見れていないのではないだろうか。
※もちろんこれ以外の理由の人もいる。
しかしこれは孤立している訳ではなく、他の目的と関わりあって成立している。
例えば、2の生殖を目的とした性交であっても、1のパートナーとの心の交流は必要不可欠であるし、4の肉体的快感も含まれているだろう。
ひょっとしたら、子供を授かることにより3の社会的価値も変化するかもしれない。これらが複合的に組み合わされている。
しかし、伝える際にはこれらを分類して伝える事が重要であり、それが性へのタブーを解くことへつながると考えた。
多くの場合、3の社会的価値と4の肉体的快感は相手に対して不快感を与えてしまうリスクが高いことは理解しておくべきだろう。
私も仕事の都合上、性教育の相談を異性の方ともするが、その際は絶対にあなたの3については触れない。例え、3を問題視した相談でも。
まとめ
以前、WEEKLY OCHIAIの落合陽一さんと紗倉まなさんとの対談で、紗倉まなさんが「世の中全体が童貞くさい。」とおっしゃっていた。落合陽一さんも性に対して過剰に特別視する様子を「世の中が小学生が大便の方へ入ると上からトイレットペーパーを投げ入れられるような空気感」と例えていた。
大事な事なのにタブー。
誰しもが関わるのにタブー。
タブーを理解し、タブーと向き合う。
性教育に携わる人間として、今後も性に対するタブーと向き合い、リテラシーを高め、良い意味で性に対して寛容な社会になる事を願う。
菅野雅之
なぜ、菅野雅之の自主練は結果にコミットしなかったのか。
今から5分ほどの時間をもらって、僕の高校、大学で野球を行なっていた時の話をするね。
はじめに言っておくけど僕は、高校も大学もレギュラーにはなれなかったんだ。それどころが高校時代の公式戦の出場は2試合だけ。最後の夏もベンチ入りのメンバー枠は20人だけど最後の21人まで残って落選。
大学もリーグ戦には出たことがない。
でもね、自分で言うのもおかしいけど誰よりも練習はした。
高校の時も屋内練習場の電気がついていたら誰もが僕がいると認知していたし、雪の日も一人で残って練習して歩いて寮まで帰った。
大学の時もそう。決まって帰るのは練習施設が閉まるギリギリ。おかげで守衛さんとは仲良くなったよ。
自主練=菅野雅之でいじられるほどだよ。
努力は必ず報われる。練習は嘘をつかない。努力に勝る才能なし。そう信じてやってきたんだ。
でも、なかなか思うようにはいかなかった。
それどころが僕は怪我までした。
悔しいよね。誰よりもバットを振ったはずなのに、誰よりもノックを受けたはずなのに、寮に帰って寝ているやつの方が試合で結果をだすんだもん。終いには怪我までするんだ。
でもね。人生で一番悔しかったのは、試合に出られなかった事でも、チャンスで三振した事でもない。
それは、かつての指導者に「お前のその無駄な練習はいつまで続けるんだ?もうやめたら?」って言われた事だよ。
結果に対して文句を言われるなら仕方ないけど、プロセスそのものを否定された高校生の僕は精神状態を普通に保っていられなかったよ。とても悔しくてね。あなたが僕の指導者なら上手くなれる練習方法を教えてくれよって。
だから、ずっと探してたんだ。なぜ僕の自主練習は結果にコミットしなかったのか。野球を競技者として引退してからずっとね。すごく悔しかったから。
そして最近、ようやく一つの答えが出た。
結果にコミットする練習とは。
今から、僕がなぜ誰よりも練習をしたのに結果にコミットしなかったのか。そしてどうすればスポーツは上手くなれるのか現段階での僕なりの答えを話すね。
僕が行った練習を簡単に説明すると、誰よりもバットを振って、誰よりもノックを受けた。
打てないからバッティング練習をしたし、守備が苦手だからノックを受けた。
別にバスケのシュートの練習をした訳でもないし、テニスのバックハンドの練習をした訳でもないよ。
今でも覚えているよ。大学1年の冬。僕と自主練習のパートナーの野田君は自分達に1日1000スイングという課題を課したんだ。勝手に自らね。
だから1月5日の正月休みで、まだ全体練習が再開される前の自主練習でもティーバッティングを1000球行ったよ。
もし、今やれと言われてもできないね。
バッティングに課題があるからバッティング練習をしたんだ。
守備が苦手だからノックを受けたんだ。
そこだよね。全てはそこ。
誰よりも莫大な時間と労力をかけたんだ。
何がそこか。今から説明するね。
いくら課題があっても、いくら苦手でも
その中の動作や、ある一定の状件下では
できるものがあるんだ。
つまり、動作を細分化して言語化することができていなかったんだよ。そしてその再現性を高めていく事が必要なんだ。
これに気づいたのはこの前の文化祭、10日間で「u.s.a.」を踊る。ってのをやった時なんだ。
ダンスの経験なんてない。周りにダンス経験者もいない。あてにしたのはYouTubeだけ。
そこで僕はDA PUMPの動画ではなく、
ひいらぎさんという方の、パート毎にゆっくり、解説してくれる動画を参考に練習したんだ。
はじめは、ゆっくり一つ一つ確認しながら踊る。
出来るようになったらテンポを上げる。
そして最後は全部を繋げて、実際の曲を流して踊った。
つまり、細分化して言語化して再現性を高める。ってことだよね。
野球で言うと、例えば内野手が打者の打ったゴロを捕球して打者走者を一塁でアウトにするというプレーの中には、たくさんのスキルが含まれている。
構え、スタート、進行方向、ストップ、逆シングルかシングルハンドか。はたまた正面に入るか、それからステップ、スローイング。
もっと細かくできるし、もっと選択肢はあるけど今回はこの辺にしておくね。
この中で、できる動作と、できない動作があるわけだよね?もっと言うと、できる状況下と苦手な状況下があるんだ。
そこをピックアップする能力が細分化。
だって逆シングルでの捕球が苦手だって言っててそれをノックで改善しようって、とても非効率だよね。いくら秋山さん(大学時代の僕にずっとノックを打ってくれた人)の腕が良いからって逆シングルで捕球する打球を何球も打てないよ。
でも、至近距離で投げるのなら大塚(大学時代僕の練習に付き合ってくれてた後輩。あんまり野球が得意じゃないんだ。元気してるかな。笑)でもできる。
そして、その感覚を言語化するんだ。
ダンスを覚えようとして、いきなり原曲を最初から最後まで流してやらないでしょ?
でも、自分がやっている競技だとやっちゃうんだよね。いきなり原曲をかけて踊るって事を。
言語化することのメリット
1.再現性が高まる。
感覚って試合の状況ではすごく重要なんだよね。この時はこういう形で。。。とか試合で言語化なんて言ってらんないから。
でもね。感覚ってすぐに変わっちゃうんだ。ましてや身体が日に日に変わっていく中学生、高校生、なんて尚更。その、日に日に変わっていく感覚を保存しておくのが言語さ。調子が悪くておかしくなった技術を修正するのは言語化したスキルなんだよね。
2.改善策が具体的になる。
いつも僕が指導に携わっている生徒には言っているんだけど、「外野手が"1歩目の判断を良くする。"っていう目標設定はやめよう。」って。
だってそれが失敗に終わった時の反省に具体性はある?そしてその時の改善策って"次は判断を良くするように頑張る!"になっちゃわない?これでは、まるで改善策に具体性がない。だから何回も同じミスをしちゃうんだ。
とは言えども。まとめ。
ただね、難しいよ。野球って。
ピッチャーが投げたボールを打つんだもん。
来るか来ないか分からない状況で100球以上準備して守るんだもん。
あんな小さいストライクゾーンにコントロールして投げるんだもん。それをバッターが打ってくるんだもん。
調子が悪くても打てることはあるし、
調子が良くても打てないこともある。
だからこそ。そんなスポーツをやるんならちょっとは考えてやらないと上手くなんてならないよね。
残念ながら根尾くんみたいな才能はほとんどの人は持ってないんだから。
遠回りこそ近道だ。とか、苦労が美徳だ。みたいなのは僕はあまり好きではないんだ。
その時々の最善策を選んですら、結果遠回りになるのに、わざわざ遠回りと分かっている道を進ませる事なんて出来ない。
早くそこに辿り着けるのなら早い方が良いよ。そこに辿り着いたら先人も抱える事の出来なかった葛藤や悩みと戦ってくれよ。
競技者でいられるのなんて本当に時間が短いからね。
そんな中で頑張る人の一つのアイデアになれたら。
菅野雅之
「普通や当たり前と多様性」
「普通はそんなことしないよねー。」
「そんなの当たり前じゃん!」
「常識的に考えてこうだよ。」
「〜ならこうするべき。」
無意識によく使ってしまわないだろうか。
私もその一人だ。
ただ、その事が原因で人間関係がこじれる事は多々ある。いや、人間関係がこじれる原因のほとんどが、こういった無意識な普通や当たり前の押し付けではないだろうか。
そんな普通や当たり前について今回は考えたい。
普通や当たり前
悩み抜いた末、
私が普通や当たり前に関して出した答えは
「あるけど、ない。」である。
なにが「あって」なにが「ない」ないのか。
それは、各個人にはあっても、他人とすべて同じものはない。ということだ。
つまりそれが当たり前などないことを意味するかもしれない。
私は、当たり前や普通は個人の中で構築されるものであり、それらを構築していく要因は“人”が大半を占めると考える。
すべての人が「当たり前や普通なんてものはない。」という価値を持ち、「みんながみんなを認めよう。」そうなれば平和かもしれない。
しかし、少し現実的ではないし、当たり前や普通というものが存在する現在に、それを求めること自体、多様性がないのではないだろうか。
私は、普通や当たり前はあっていいと思う。
いや、あったほうがいいとさえ思う。
むしろ、それを持たずに生きることは不可能ではないだろうか。
自分の中の常識や普通があるから飛び越えたものが生まれるし、アップデートできる。
しかし、これは「個人」に限ってだ。
それを他人へ振りかざし強要する事はあってはならない。
多様性とは
例えば、「私は同性婚をしない。」は全く問題ないが、同性愛を否定し、「異性と結婚すべきだ。」とののしることは、あってはならない。
それに加え、もう一方で対局にいながら問題なのが「同性婚についてもっとあなたは受け入れるべき」という考えだ。
一見、そういった事に対して理解があり、多様性があるようには見えるが、それを他人へ強要し、共感を求めるのは多様性に欠けるのではないだろうか。
落合陽一さんがこんな事を言っていた。
「多様性、多様性言ってる人が一番、多様性が嫌いなユーザーに寛容じゃない」
「共感性の高い"多様性主張ユーザー"ほどうざいもんはない。」
すごく考えさせられた。
普通や当たり前と多様性
他人の当たり前に関して、イラッとする事もあるし、嫌な思いをする事もあるだろう。
それに対して「あなたはこうするべき。」
と伝える事は上記に当てはまってしまう。
そんな時に「私はこう考える。」や「私はそれは嫌だ。」と伝えられると、言葉としてはストレートで少し攻撃的になるかもしれないが、こちらの方が人間関係がこじれる事は少なくなるのではないだろうか。
他人の当たり前を許容し、認められるようになると、関われる人が増える。
そうすると、当たり前や普通を構築する要因である“人”に出会う幅が増える。
それが自分の普通や当たり前をアップデートする方法なのではないだろうかと私は考える。
DA PUMPの「U.S.A.」の歌詞にもあるように、“だけれど僕らは地球人”だ。普通や当たり前の基準を、家族や属するコミュニティ、地域や日本に留まることなく、地球にしてしまえば肌の色が違うのも当たり前、障害があるのも当たり前、同性愛も当たり前になるのではないだろうか。
23歳現時点での私の考えである。
この件に関しては是非みなさんの考えをお聞きしたいです。みなさんの普通に関する考えを聞かせてください。
菅野 雅之
積極的アルバイトのすすめ。
大学3年の夏で野球を辞め、そこから約1年半、いわゆる大学生っぽい生活が始まった。
今回はその1年半で経験したアルバイトの話をする。
そこでの取り組みを通して、アルバイトに関わる人、また働く人になにか伝えられたらと思う。
私がしていたのは、新聞の契約更新の営業のアルバイトとスポーツジムでのトレーナーのアルバイトである。
はじめの目的はお金を稼ぐことであった。
しかし、スポーツジムでのアルバイトの時給は埼玉県の最低賃金に設定されていた。
それでも良かった。
いや、極端な事を言えばボランティアでもそこでのアルバイトはしていたかもしれない。
なぜか。
それは、とにかく自由だったからである。
まぁ自由というとシフトがどうとかという事がまず頭に浮かぶが、それだけではない。
と言うのは、まず基本的に私たちアルバイトが働く時間はジムエリアに社員がいなかった。
そこが私にとっては大きかった。
私は自分の客を自分で捕まえた。
自分からお客さんを捕まえて「お手伝いさせてください。」と声をかけた。
自分で自分が経験を積む環境を作った。
こんな事を言っては怒られるかもしれないが、あの仕事を本業としている人に比べて、アルバイトの私はとにかくリスクが少なかった。
店の経営が悪くても私の責任ではないし、お客さんを自分で選べるし、失敗してもアルバイトだからリスクは少ない。最悪の事態には辞めればいい。
かといって、私がいい加減に仕事をしていた訳ではない。どう考えても時給以上の仕事は間違いなくしていた。とにかく必死だった。狂ったようにお客さんに声をかけ、全力で向き合った。
だから、学生であってもトレーナーとして振る舞った。前回のブログにもあったように完璧な人間として振る舞ってていたから面白くないと映ったのかもしれないし、友人からもなんだか、すごかった。と言われるのだろう。僕はアーティストになる。 - 若人の考えていること。
しかしだ。リスクは無いとはいえ、自分自身、責任は感じていた。ましてや人の体に直接影響する仕事だから、間違えた事をすれば怪我をさせる危険性はあるし、一歩間違えれば命をも奪うかもしれない。
だから自分が経験していない事はやらせなかったし、資格もとった。大学の講義も意欲的に受けた。
大学で勉強している内容と、アルバイトの相性はバッチリだった。
アルバイトはノーリスクだ。合わなければ辞めればいい。辞めることのリスクはゼロに等しい。
私の場合は経験を稼いだが、なんでも良い。
せっかくバイトするなら時給以上のものを稼ごう。経験、時間、人間関係、ノウハウ。
自分の1時間を、現在の東京なら985円で売っていてはもったいない。
高校生、大学生の参考になれば。
そして私自身も、こんな働き方をしたい。
菅野雅之
僕はアーティストになる。
しばらくブログの更新が滞っていた。
書く時間が無かった訳ではない。
なんだかこれと言って、ネタが無くなってしまったのだ。
もう少し詳しくいうと、物事に関して何も感じる事が出来ずにいた。
おそらく心があまりよろしくない状態にあったのかもしれない。
私は、
「愛」の対極が「怒り」ではなく、
「幸せ」の対極が「不幸」ではなく、
「喜び」の対極が「悲しみ」ではない。
と考える。それらの対極にあるのは「無」である。
そんな「無」の状態にある事に自分自身で気づいていながら、それを改善出来ないでいる自分に嫌気がさしていた。
そんなある日、ある人に「お前は人間味が無い。」と言われた。冗談ではなくかなり本気で。笑
ショックな気持ち半分と、いまいち何を言っているのか分からないのが半分で、正直動揺した。
なんだか自分では腑に落ちなかったので、大学時代のバイト先で知り合った親友へ連絡をした。「オレって人間味ないかな?」と。
するとその親友は、私にとって想定外の答えを返した。
「そうかもね。だってバイトの時すごかったじゃん。」と。私は絶句した。
※私のアルバイトの取り組み方は後日ブログに記載する。
どこか自分の中では、人間味溢れる人でありたいと思っていたが故にすごく悲しかった。
どこでそうなってしまったのか、何がそうさせたのか。なんだかこの問題を解く事は今後の人生にとっても大きいものではないかと思ったのである。
案の定、高校時代の友人へ同じ事を聞いたところ「いやお前ほど人間味あるヤツいないと思うけどな」と言われた。
そんなある日、月曜の深夜にフジテレビで放送されているテラスハウスの録画を見ていた。
テラスハウスとは男女6人でルームシェアをしている様子を記録したドキュメンタリーである。台本は一切ございません。笑
というやつだ。
その回の内容は、ミュージシャンの男性が想いを寄せていた女性に告白したがフラれてしまう。という内容だった。
そして、それを見た南海キャンディーズの山ちゃんが「いいなぁ。アーティストは。これでいい歌が書けるんだもん。」と。その言葉を聞いてハッとした。
これだ。
ついこの前まで大学生だった自分が、4月から「先生」になり、どこか「先生」らしくいなきゃいけない。失敗したり、弱いところを見せたりしてはいけない。完璧じゃなきゃいけない。
どこか、そう思っていた。
でも違った。
哲学の授業で「AIと人間の違い」について生徒と対話していた際に、「AIは完璧。人間は失敗する。」「AIには感情がない。人間には感情がある。でも、悲しいとか悔しいとか怒りとかのネガティブな感情もある。それによって傷ついたり、傷つけたりする。」と生徒が意見を出してくれた。まさに人間味だ。
失敗も弱い部分も含めて人間。そんな事を教えてもらった。
そう思えてから、すごく楽になった。
だから、生徒には失恋したことも言うし、失敗した話をなるべく話すようにしてる。生徒もどうやらそっちの方が興味があるみたいだ。
というより、誰しもがそうなのかもしれない。
僕の大親友がこんな歌を教えてくれた。
関取花さんの「もしも僕に」という歌だ。
そこにはこんな歌詞がある。
"それもこれも 最後には
笑い話に変えられるように
人生なんてそうさネタ探し
楽しんだもん勝ち そういうものだよ"
教えてもらった時は、ふーん。と聞いていたが、そんな出来事があり、やっと意味が分かった。
教師もアーティストであると。表現者だなと。そうやって失敗した事を笑い話にしてネタに出来る。
そんな事を思たら、なんだか全てが楽しくなってきた。
とりあえず23歳の僕はそうやって生きていきたいなと思った今日この頃でございます。
「運命を愛し、今を生きる。」
菅野雅之
「道具をキレイに磨いて来い。」は個人的な価値観の強要か。
練習試合前のグラウンドに綺麗に並べられたグローブとスパイク。しかし、昨日の練習でついた砂がそままの道具がちらほら。もし、あなたが指導者ならどうするだろうか?
選手を集めて説教をするだろうか。
怒鳴り散らすだろうか。罰を与えるだろうか。
道具を大切に使うのだと言い聞かせるだろうか。
逆に、
選手に道具を磨く時間をとってあげられなかったのだなと感じるだろうか。
グローブやスパイクが綺麗かどうかは関係ないと思うだろうか。
私は個人的には、道具は綺麗に磨いた方が良いと思っている。
大学時代も平日も毎日とまでは言わないが、磨いていたし、グローブに砂が付いたままという事はまずなかった。スパイクもどうせノックをうければ一瞬で汚れてしまうが、試合前は必ず磨いていた。
ただこれは私が属していたコミュニティでは特別な事ではない。私の同期はキャッチャーミットを毎日寮に持ち帰り綺麗に磨いていた。
そこでだ。私は磨いた方が良いとは思うが、中にはどちらでも良いと考える人もいるだろう。
他の競技でも同じようにスパイクやシューズを毎日磨けという指導はされているのだろうか。
これは野球特有のものなのだろうか。
そんな事を考えていると、これは個人的な価値観に過ぎないのではないかという疑問を抱いたのだ。
私が教員として生徒と接する時に意識している事の一つが、個人的な価値観を強要しない。という事である。
私の当たり前は、私の当たり前に過ぎず、色々な考え方や価値観があって良いと思っているからである。
今から極端なことを言う。
授業中は帽子をとれ。授業中は飲み物は飲むな。机の上は綺麗にしろ。挨拶は全員揃えて大きな声で。バスケットボールやバレーボールを足で扱うな。眉毛は剃るな。など学校では当たり前のように注意されるが、極端な事を言うとこれらは、個人的な価値観でしかない。※これらを否定しているわけではない。
一方で、ベンチは綺麗にして帰ろう。使った物は元の場所へ戻そう。脱いだ靴は揃えよう。など、これらは「他者への思いやり」的な部類に当たるため、今回の話の内容とは少し違う。
もし、磯野波平がセサミストリートの世界に飛び込んだら。
※磯野波平をバカにするわけではありません。笑
アメリカに行った時の事だ。とあるファストフードのチェーン店に入った。すると、アルバイトスタッフがユニフォームのままスマホで電話をしながら店内の客席に座り、まかない食を食べていた。
日本では見ない光景だ。
私はそんな姿を見ながらこんな事を考えていた。
もし、日本の磯野波平的なおじさんが「バーカもーん‼︎‼︎」と怒鳴りつけたらどうなるだろうかと。
※磯野波平的とは日本特有の礼儀やマナーを重んじ、個人の揺るぎない価値観を持っている。という私の勝手なイメージです。
※もう一度言います。別に磯野波平をバカにしているわけではありませんよ。笑
おそらく、「why?」と言い、言われた本人はキョトンとするだろう。
そして周りの人も驚くだろう。
つまり、育ってきた環境も違えば、文化も違う。日本ではマナーとして成り立っていても、他国に行けば失礼にあたる事だってある。
つまり、当たり前や常識、世の中などと言うのはその人が作り上げたものでしかないのだ。
そしてそれは教員であっても同じであり、
教員の当たり前や常識が世の中の当たり前や常識とは限らない。
その個人的な価値観を押し付けていいものか。
私は葛藤した。教える立場として伝えるべきか。どのような伝え方をすれば伝わるだろうか。と。
「高い道具を買えない人もいるんだから、大事に使わなきゃダメだ。」と言っても伝わらない気がした。
まとめ
道具の話に戻るが、多くの人は道具は大切に扱うべきだというだろう。私もその内の一人だ。
自己啓発本などにも、靴を磨け。という文字が並ぶのを目にした事がある。
私が考えるに、おそらく、靴を磨く行為自体に大きな意味は無いだろう。
重要なのは、その靴を磨こうとする気質なのだ。
私も振り返ると道具を磨く理由は、願掛けが一番大きかった。
少しでも良いプレーが出来ますように。
これでミスが一つでも減るなら。
と祈るように磨いたものだ。
野球に対する熱量や姿勢、気質が道具を磨くという行為に現れるのでは無いだろうか。
選手を集め、道具を綺麗に磨け。と言えば選手は磨いてくるだろう。そして磨いて来なければ試合に参加させない。とでも言えば必ず全員磨くだろう。
しかし、それでは道具を磨く理由が、「怒られるから。」になってしまう。それは私の哲学に反する。
その気質を育てていく事が私達の仕事だと感じた。
最終的にこの事は選手へ伝えた。
ただ、これは私の個人的な価値観だ。という事も含めて。
色々な大人から教わり、色々な大人の価値観に触れるだろう。その時に自分が納得したものを取り入れていけばいい。
結果的に全員が道具を磨いてこなくてもいい。
選手を集め、怒鳴り、罰を与えて全員が道具を磨いてくるよりも、1人でも自分の意思で「道具を磨こう。」とする選手が増えたならそれで良い。もっと極端な事を言うと、「絶対にスパイクなんか磨かない。」という意見が出てもそれで良いのかもしれない。
皆さんはどのように考えるだろうか。
意見を交換できれば幸いである。
菅野雅之
スポーツの楽しさとは。
「明日の試合は楽しみたいと思います。」「楽しんでプレーできました。」スポーツの試合のインタビューなどでよく耳にする言葉である。
その一方で「私は競技を行なっていて楽しいと思った事は一度もない。」「楽しむことなんて事が出来るのはごく一部の選手だ。」という事を言われた事がある。
スポーツにおける「楽しさ」とはなんなのだろうか。
負けたら楽しくないのだろうか。一流選手でなければ楽しめないのだろうか。楽しんだら勝てないのだろうか。
今回はそんな「楽しい」という感情を言語化してみる。
「楽しい」の種類
私の高校時代を思い返してみると、確かに高校野球をしていて楽しいなどと感じた事は、ほとんど無かった。
スポーツをしている時の「楽しい」で思い返すのは、体育の授業や放課後にソフトボールやサッカー、ドッジボールをして楽しかった事くらいだ。
これは遊戯であり、余暇としての楽しさだったのだろう。ただこれが、スポーツの本質ではあるが。
ふざけ合い、ワイワイはしゃいだ。
当時の私は、それを野球でも出来たらいいなとは思った。しかしそれはできない。だって試合で活躍したいし、勝ちたいのだから。と考えていた。
つまり「競う」から楽しめない。
という固定概念があったのだ。
しかし、今回本気でスポーツを行なっていてもスポーツを楽しむ事ができるのだと気付かされた。
それは何か。まさに「競う」事である。
目標を共有し、達成へ向けた課題を共有し、改善策を模索し、そしてその結果が目標達成へ届くのかというワクワクやドキドキを共有する。
これがとにかく楽しい。
そしてこれは、相手がいて「競う」事ができるからである。
これを今年の夏、選手には教えてもらった。
楽しさを作るモノ。
「大事なのは勝ち負けじゃない。」よく聞く言葉だ。
私も大会期間中にはこのような感情になった。
試合中の選手の表情を見ていると、本当に良い顔をしていた。カッコよかった。それを見た時に、結果はどうなっても良いと思えた。
ただ、ここが重要であるが、初めから勝ち負けはどうでも良いと思っていたわけではない。
本気で勝ちを目指した。
ここに価値があるのだ。それが「楽しさ」を作るモノだったのだ。
本気で勝ちを目指し、その勝負を楽しんでいる姿を見た時に、結果がどうなろうと受け入れられた。
試合前はワクワクし、試合中は共に喜び、全てを共有できた。
不思議と最後の試合は大差で負けたが、楽しかった。
そして試合後に選手の口から「楽しかった」と言う言葉が聞けた事は何にも変えられない。
スタッフとして一番嬉しい言葉であった。
ありがとう。
菅野雅之