なぜ高校野球は大学野球よりバズるのか。
今年もこの時期がやってくる。
そう。夏の高校野球だ。
以前も書いたが、高校生の全国大会が全試合地上波で生放送される事は普通の事ではない。
アマチュアの競技で6万人近くの観客を集めるものは他にいくつあるだろうか。
今年の春の第90回選抜大会決勝は30年ぶりの満員、昨年夏の選手権大会は朝の6時30分に満員通知が出るなど、人気は加速している。
その一方で、同じ競技でありながら日本国民にあまり馴染みがないのが大学野球である。
競技のレベルだけを見れば大学野球の方が高いはずではあるが、2015年の東京6大学野球の年間観客動員数の平均は8,000人だという。
選手権大会に至っても満員通知などは聞いたことがない。
地方大学になればそれは尚のことである。
これはなぜだろうか。
高校生の全力プレーに心が動くのだろうか。
では、大学生は全力プレーをしないのだろうか。
高校生の清々しい姿が勇気を与えるのだろうか。では、大学生は清々しくないのだろうか。
もちろん上記のものが影響していない訳ではないが、それだけではないだろう。
エンターテイメントとしての甲子園
先日バスケットボールのプロリーグbリーグのファイナルをテレビで見ていた。
近年bリーグは注目を集め、今シーズンの観客動員数は過去最高の10万人を突破したという。
その中継のなかで、様々な集客のための工夫が紹介されていた。BGMを流して会場を盛り上げたり、応援グッズの配布、ハーフタイムショーではチアがダンスを披露したり、観客達はチームカラーのティーシャツや帽子を着用している。
なにか気づかないだろうか。そう。
これは高校野球の場合、連盟がこのような事をしなくとも、学校の生徒が勝手にこのような事をやってくれるのだ。
ここが決定的な違いではないかと考える。
以下に高校野球が大学野球より人々の関心を集める理由を2つあげる。
1、一般学生を巻き込めるか否か。
大学では体育会学生は基本的に一般学生(運動部活動に所属していない学生)との接点は、ほとんどない。私の知っている体育会学生は学校では部活動の仲間と群れるので一般学生からすると少し近寄りがたい存在であり、そもそも学校にすら来ない者もいる。
その為、同じ大学の運動部が試合で勝ち進んでも一般学生の話題にすらあがらない。
親近感がないのだ。
一般学生を巻き込めていない。これが、大学野球が盛り上がらない一つの要因ではないだろうかと私は考える。
アメリカの大学スポーツの人気は日本とは比べ物にならない。
私が今年の2月に、アメリカでUCLAのバスケットボールの試合をゴール裏の中段やや下から観戦した時の値段は1席あたり日本円で1万2,000円だった。大学スポーツでだ。
しかし、反対側を見るとUCLAの応援団(学生)が最前列から中段後方まで陣取っている。一緒に観戦していた友人と「あのシート全部一般用にしたら、いくら儲かるんだろうか?」と話していたものだ。
しかし、あの一般学生の盛り上がりが雰囲気を作っているのだ。
高校野球をはじめ、野球を観に来るお客は、
実は野球だけをじーっと観に来るわけではない。
学校の応援、吹奏楽部の演奏、チアガール、揃いのウエアを着用する非日常、スタンドで飲むビール、飲食店の出店。こういった球場の雰囲気の全てを楽しみに球場へ足を運んでいるのだ。
野球単体ではなく、全てを含めたものがエンターテイメントに勝手になっている。
2、地元の人たちを巻き込めるか否か。
上記のアメリカの大学スポーツを観戦して感じたもう一つが、これである。
私が通った大学では、学内に地域の人が立ち入る事はほとんどなく、その地域で孤立していた。
もちろん、安全面の配慮は必要だが学内の施設を貸し出す事や、地域の高校や中学校との交流があってもいいのではないだろうか。
どこかの某大学野球リーグのようにアクセスが悪く、所属大学とは無縁の地でのリーグ戦を開催していては、大学を応援する地元の人達が足を運びにくい。
ホーム&アウェーでやれとまでは言わないが、所属大学のない県でリーグ戦を開催する事など考えられない。
人が集まれば、お金が集まる。
それを選手達の為に使い、良い環境でプレーさせられたらそれに越したことはない。
どうも、お金を取ることは学生スポーツではタブーとされているが、それを選手達の為に使えばなんの問題もないのではないだろうか。
現在盛り上がりを見せているサッカーW杯を見ればわかるように、スポーツには観るという関わり方がある。
スポーツを観に来た人達には何かを伝えられるはずではないだろうか。
それがスポーツの一つの価値である。
野球人口が減少している今、野球が良い形でバズる事を期待する。
さあ、今年も夏が始まる。
菅野雅之
あとがき
「バズる。」とは通常SNSなどで「みんなが話題にしている。」や「多くシェアされている。」という意味で使われている言葉ですが、今回はSNSに関わらず、日常的に「みんなが話題にしている。」という意味で使いました。
あと、単純に響きが良くてスッキリするので。笑
今回は具体的な話ではなく、評論的な内容になってしまいましたが、このような背景がある。という事だけでも伝わって、何か考えるきっかけになればと思います。
ご意見・ご感想あればよろしくお願いします。
大学生になる君へ。
先日、素敵な青年に会った。
練習試合が終わり、着替えを済ませ帰ろうとした時のことだ。相手校の選手が私へ話しかけに来てくれた。
「〜こういう考えで、〜いうバッティングフォームに取り組んでいます。これは、大学野球でも通用しますか?もし良ければ動画を見ていただきたいのですが。」と。
※青年へ。質問の内容は、記憶を頼りに書いたので、間違いがあれば申し訳ない。
私は、想像もしない出来事に驚いた。
高校野球の練習試合で、相手校の指導者へ指導を求めるなど聞いたことも無ければ、思いつきもしなかった。
指導者にやれと言われているのか?と聞くと、
自らの意思で行なっています。と。
なぜ、私を選んだのか。毎回このような活動をしているのか。それは分からないが、とにかくその行動を起こす力には驚いた。
この青年の、行動を起こした勇気に応えたい。そんな思いで今、このブログを書いている。
大学生になる君へ
そんな青年と話をしていく中で、こんな相談を受けた。「進路(大学選び)」についてだ。
その青年は、進学後も競技を続けたいと話していた。そして、具体的な大学も目星がついているようであったが何を基準に選べばいいのかと悩んでいた。
そんな青年に、1つ質問をした。
「その大学に入ってなんの勉強をするの?」と。
青年から具体的な答えは返ってこなかった。
その青年がその大学を選んだ理由は、
「野球」である。
私もそうであった。
いや、大学で競技を続けようとしている、もしくは続けている、そして続けていた人は大半がそうではないだろうか。
もちろん、大学で競技を続ける意志がある者にとっては、どのようなレベルで、どんなチームか。などは、とても重要である。
しかし、それだけで選んではならない。
これは断言する。
大学まで行って、自分の興味のない事を勉強する。これほど無駄でつまらないものは無い。
中学生だった私が高校を選んだ時もそう。
高校生だった私が大学を選んだ時もそう。
野球がやりたいという理由だけで選んだ。
ただ、私が最も幸運だと感じているのが、自分が競技を離れた時に、自分の学びたい事がその環境で学ぶ事が出来たことである。
これは、高校時代に薄っすらとでも、何を学ぶか。について考えていたからだ。そういう意味で私は過去の自分に感謝している。
甲子園へ行くために高校を選び
競技を続けるために大学へ行き
なんとなく就職活動を迎え
とりあえず内定をもらった企業へ就職する。
こういった例に当てはまる体育会学生は少なくない。
体育会学生は本当に顔が広いのか
この背景には、関わるコミュニティがあまりにも少ない事が一つの要因であると考える。
スポーツを行なっている人は関わるコミュニティが多いように思われがちだが、実は非常に少ないと私は考えている。
朝から晩まで練習し、寮生活。
学校に行けば部活のメンバーと固まり。
果たして365日中、何日、何時間、同じメンバーと過ごしているのだろうか。
幼稚園児に将来の夢を聞いたら
なんと答えるだろうか?
正義のヒーロー。スポーツ選手。おもちゃ屋さん。ケーキ屋さん。お花屋さん。警察官。お医者さん。
この辺は出てくるだろう。
つまり、自分の知っている職業や、関わった職業の中から選択するのだ。
果たして、体育会学生はここからどのくらい増やせただろうか。
かくいう私もほとんど増える事なく教師という道を選んだ。
徐々に世の中の「学歴」に対する考え方が変わってきていて、学歴にこだわる必要はないと言う人もいる。
しかし、私の出身大学くらいになると、大手企業では書類選考の時点で落とされることも珍しくない。と、就活をしていた友人が言っていた。
ただ、大手企業に採用される事が成功で、
良い人生なのか。
そこも含めて考える必要があるのではないだろうか。
なぜ、こんな事を発信しようと思ったのか。
それは、私が大学で競技を退くまでそれが普通の姿であると思っていたからである。
こうした事に対して誰も疑問になど思っていなかったのである。
これから大学を選ぶ高校生の君、
現在進行形で大学生という時を生きている君、
就職活動で進路に悩む君、
どうか普通を疑ってほしい。
単位や大卒という学歴のために時間とお金を浪費するのはやめよう。
菅野雅之
野球ってなんだろ?
連日スポーツニュースではプロ野球の全試合のハイライトが放送され、高校野球も春・夏ともに全試合地上波で生放送されている。高校生の全国大会で全試合生放送されるのは野球という競技だけであり、この文化というものは少し異常とも言えよう。
そんな野球というスポーツを私は小学2年から14年間行ってきた。そしてまた、幸運な事に今もなお野球というスポーツに携っている。
そんな私も1年半ほど野球と関わらない時期があった。その際に、以下のような活動を行ってきた。
他のスポーツを見る事により、野球というものの特徴が見えてきた。
まず、様々な分類の方法がある。チーム競技か個人競技か。コンタクトスポーツか否か。クローズドスキルかオープンスキルか。エネルギー代謝。
野球の特徴として
チーム競技である。
コンタクトがない。
オープンスキル。
ATP-CP系。
イニング制。
走る距離が決まっている。
など様々な特徴がある。
スポーツにはその競技の様々な特徴があるが、私は今回、ここに注目したい。
それは、チーム競技でありながら個人の技能が勝敗に大きく影響する。という事である。
特に投手が試合の勝敗に与える影響はかなりのものであろう。
更に、攻撃は特殊である。
サッカーやバスケットボールは自陣にボールが渡り、攻撃側になった際にはある程度ボールをコントロールする事ができる。
そのため、事前に攻撃側になった際にどのように攻め込むかの作戦を立てる事ができる。
しかし野球は攻撃側になっても自陣でボールをコントロールする事はまずない。むしろ、攻撃側になった時の方がボールをコントロールする機会は大きく減少し、チームで連携した動きをする機会も大きく減少するスポーツである。
さらに打順があり、必ずバッターボックスには一人で入り、順番通りに攻撃者が攻撃を行う。つまり、攻守は規則的に入れ代わり、相手とのコンタクトは無い。
これが俗に言う番狂わせが起こりやすい要因の一つだろう。
野球の練習は?
しかし、練習はどうだろうか。
野球の練習は極めて長い。
その要因は以下の通りである。
まず、ポジションによって必要な動作が変わる。そして、攻撃、守備、の中で共通するスキルが少ない。また、全員でボールを持って行える練習が少ない。という点である。
この点からどうしても、他の競技に比べ練習が長くはなるのだが、それでも改善はできると考える。
野球という競技において全体での連携が必要な練習を考えると、シートバッティングなどのゲーム形式、全体でのノックくらいしかないのではないだろうか。
その点から、やはりチームでの連携を確認する練習は少なく、同じチームスポーツであるサッカーやバスケとは根本が違うのである。
私の大学時代の練習は、学校が休みの日は朝の9時から練習が始まり3時から4時くらいまで全体練習が続いた。
その間、前から来るボールを実打したのが5分、(ティーバッティングはかなり行ったが)守備の捕球機会20球。という事は珍しくない。朝から夕方3時、4時まで練習を行っているのにだ。
内訳は、全体のキャッチボール、シートノック、シートバッティング、フリーバッティング、ランニングトレーニングだ。
大学時代は試合メンバーでは無かったので、シートバッティングは守備だけ。そうなると、上記のような状況になり、もしシートバッティングで打てても数打席である。そのため、全体練習が終わった時には、ようやく自分の練習ができる。と思っていた。
この、シートバッティングやフリーバッティングというのは、とにかく時間のかかるメニューである。
野球の練習を見てみるとこれはよく分かる。
グランドを見渡せば、順番待ちをしている何もしていない人がゴロゴロいるのだから。
野球を行なっている人は是非、その日、どのくらい実打して、打球を捕球したか、考えてみると良い。
よく、アメリカと日本の練習時間の長さの違いが取り沙汰されるが、アメリカの選手・指導者は、その点をよく理解しているように感じる。
MLBチームのキャンプ施設には、日本でよく言う"鳥かご"が置かれていて、全体練習の前後では選手達はよくここでバッティング練習を行っていた。
投手は投内連携を全体で行うが、それ以外はほとんどは個人練習だ。
外でのフリーバッティングは、実際の打球の角度や、飛距離を確かめているという感覚だ。そのため、選手はラスト2.3本はホームランを狙って、本当にホームランを打つのだが、それ以外は狙ったところへ打ち分ける。
別に、日本もメジャーリーガーのようにやれとまでは言わないし、アマチュアでは練習の運営上どうしても長くなる。
ただ、個人のスキルを上げる練習と全体での連携を確かめる練習や判断のスキルを高める練習を併用して行ってしまうと、それだけで練習時間は格段に長くなってしまうのだ。
さらに、これに体力を高める練習も一緒に行おうとすると、これはもう最悪である。
それが、振り込み、走り込み、投げ込みであろう。
ここをあえて、しっかりと分離させていくことが重要なのではないかと私は考える。
誤解を招く恐れがあるので補足しておく。
あくまでも、野球はチーム競技である。これは、どんなに個人がヒットを多く打っても、三振をどんなに奪っても、勝利に影響はするが、直結しないからである。
それはホームベースを踏んだ回数を相手と競うからである。
つまり、どんなにヒットを打たれても、どんなにエラーをしようとも、どんなに三振しようとも勝てるのが野球である。
だから、チームスポーツなのである。
しかし、このブログで私が伝えたいのは"とは言えど"野球という競技を見た時に、個人のスキルが占める割合は多いのではないか。そして、それを分離させていくことが重要なのではないか。という事である。
どうしても長くなりがちな野球の練習。
運良くヒットが出てしまう事もある野球。
3割打てば良い打者といわれる野球。
調子が良くても、打てない時もある野球。
だからこそ、運や神様を味方につけるために猛練習をしてしまう野球。
この練習は意味があるのか?と疑問を持ちながらも、どこかで報われると信じて猛練習する野球。
なにか考えるきっかけになれば。
菅野雅之
選択と決断の日々の中で。
なんか、みんなと哲学をやってみたいなって。
大人ってなに?とか。自由ってなに?とか。
勉強ってなんでするんだろ?とか、愛と恋の違いって?とか。
当然、そんなものに絶対的な正解なんてないんだろうけど、自分なりの答えを出していくのが大事なんじゃないかなって。
教師として、知識を伝えるのはもちろん大切で、それが考える材料になるとは思うんだけど、それはある意味、今の時代で学校でしかできない事では無くなってきている。
本を開けば書いてあるし、学校の先生以外の誰かに教えてもらいたければ塾がある。
スマホがあれば調べられるし、好きな授業を好きなタイミングで受けられる。
そんな中で、学校で勉強する事の意味をあえてあげるのであれば、それは「多様な人々と学び合う場」であるということ。じゃないかな。
そしてそれを活かせる手段の一つとして、哲学ってわけ。
それは絶対的な正解がないから。
そして、逆に色々な正解があるから。
色々な人の意見を聞いて、良いなと思えば取り入れればいいし。賛成はしなくても否定や拒否はしない。そういう考えもあるんだね。って。
疑問があれば聞けばいいし、思った事を言えばいい。
せっかく色々な人が集まっているんだから。
誰もが未来でどんなことが起こるかなんて分からない。
どんなにお金を持ってても、頭が良くてもね。
でも、それぞれが今を生きてて、未来が自分にとって良いものになるように日々、選択や決断をしている。
何を根拠に選択や決断をしているのか?それは、自分の価値観とか、考え方とか、生きてきた経験とか、だと思う。
それらの選択肢を増やす事や、決断を後押しすることができたらな。って。
就職活動で進路に悩んだり、好きな人に思いを伝えようか悩んだり、老後の心配をしたり。
誰にも、どの道が正解かなんて分からない。
でも、毎日、選択や決断をしながら生きている。
同じAという道を選ぶんでも、A orBじゃなくて、もっと多くの選択肢の中から選んで欲しいなって。それは僕自身もそう。
人は人にいい意味でも、悪い意味でも影響を受けるから。
と、偉そうに23歳の僕が思っている事を書いてみました。これも一つの選択と決断ですかね。
ps.教員採用試験対策では哲学者の名前をたくさん覚えたなと。
菅野雅之
大学生やってみた。を終えて。
時の流れは早いもので、私は大学生というものを終えた。
ついこの前まで、ランドセルを背負っていたような気もするが、これは夢でもなければ、映画でもない。現実である。いよいよ私は社会人としてスタートをきった。
高校の時は寮生活、大学では地元を離れ一人暮らし、何度かこのような事は経験してきたつもりではいるが、慣れないものだ。
どこか寂しく、まるで1人で生きているような感覚に陥る。いつでも始まりはこんな気持ちになるものである。
しかし、それ以上の期待を抱いている。そして、それは組織への期待ではなく、自分自身への期待だ。新たな環境に入った時に自分自身が何を感じ、何が出来るのか。これからの自分が楽しみである。
住む環境を変え、今までと違うコミュニティに入り、1日のタイムスケジュールも変わる。
つまり、自分が変わる。いや、成長できる環境は整っている。
そして、その時により大きく跳べるように助走は十分にしてきたつもりである。
今回は、その助走について書いていく。
大学生やってみた。をやったきっかけ。
私は、大学入学当初、卒業後の目標として社会人野球を行う事を第一に考えていた。これを真面目な顔をして言うと、周囲の人は大笑いをした。
今思えば当然の事であり、到底そのレベルには達していなかった。
しかし、当時の自分は周りが思うより本気で達成しようと考えていた。当時の僕を知る周囲の人達へ聞けば私がどれだけ狂ったように練習したかは分かるだろう。
しかし、残酷な事に。いや、幸運だったかもしれない。私は大学2年の冬に怪我をした。その後も悪あがきをしながら、大学3年の夏まで野球を続けたが、怪我の影響と野球部の指導方針に違和感を感じ野球部を退部し、現役も退いた。
そこから私の大学生は始まった。
それまでは大学生ではなく、野球浪人のようなものである。授業を受け、終われば練習、夜遅くに帰宅し、学校がない日は朝から晩まで練習。野球を行うには申し分ない環境だが、何か新しいことに挑戦する余裕などまるでない。そんな日々だった。
そんな日々が終わったある日、当時、報道ステーションでスポーツコーナーのキャスターを新しく任された水泳の寺川綾さんが初めての野球取材で、初めてのプロ野球を見ながらボソッと「現役の時に観ていたらまた違ったかもしれない。もっと早く観ておきたかった。」ハッキリとは覚えていないが、そのようなニュアンスの事を言った。
水泳選手として第一線で活躍し、オリンピックに出場した選手でも、違う競技を見るのは初めてであり、この場合でいうと野球に関する知識は素人と変わらない。
しかし、スポーツというジャンルに関しての知識や経験が豊富であるから、素人よりも疑問や感じる事は、とても多い。
つまり、大学まで野球を続けたとしても所属した組織は小、中、高、大と4つだけである。それぞれの組織によって取り組み方は違うし、年齢によっても違う。競技が変われば更に違う。
このまま指導者になる訳にはいかない。
自分が所属した4つの組織以外の組織の取り組みに興味・関心が湧いた。
強いチームはどんな取り組みをしているのだろう。
他の競技でも自分が所属したチームと同じような事を行なっているのだろうか。
スポーツに関わっていく人間にとって、自分自身の競技以外を目にする事は学びが大きく、より自分自身の競技を知ることになるのではないだろうか。
自分の興味・関心に身を任せ行動した。
小学生の野球、柔道、体操、卓球、
中学生の野球、高校生の野球、バスケ、ラグビー、バレー、サッカー。授業見学。
プロ野球球団。トレーニング施設。
アメリカの高校生の野球、アメフト、スポーツメディスンの授業、短大生の野球、バスケ、NCAAの野球と、バスケの試合、トレーニング施設。
全て自らアポをとり、見学をお願いした。
その為、今までは海外どころが、遠征などでしか他県を訪れる事は無かったが、野球を辞めてからは全国各地を1人で訪ねて周った。
しまいには、大学4年の夏と2月に2度もアメリカへ一人旅をしてきた。
つまり、「なぜ、このような活動をしたか?」の問いに、あえて理由を一言で答えるなら
「非日常から日常を変える」ためである。
これは友人がくれた言葉だが、とてもしっくりきた。
私のこれからの日常は教育やスポーツと関わる事である。その中で、なるべく多くの選択肢を持ち、多くの疑問を抱き、多くの事を感じ取れるようにするために大学生のうちに行っておきたかったのである。
つまりこれが「助走」である。
大学で教育やスポーツについて勉強している。と伝えれば、ほとんど断れる事はなかった。
これが大学生の強さである。
大学生だからこそ、見学を引き受けてもらえた例も少なくない。
大学生でいながら、「大学生って最強だな。」と思いながら生活していた。
大学の先生はその道の専門家であり、
意欲のある学生には真摯に向き合ってくれる。
幸運にも私はそういった先生方と出会えた。
さらに見学を依頼したチームの関係者にも大変良くしてもらった。
こうした出会いがたくさんあった事も、こうした活動をしたからこそのものであると考える。
いや、むしろ出会いに自ら向かっていったのだ。
んで、結局、何を学んだの?
この前、友人から「んで、アメリカに行って何を学んできたの?」と聞かれた。
具体的に言えば色々ある。
野球の練習の仕方も違えば、高校の授業のスタイルも違う。大学スポーツの規模など日本とは比べものにならない。
スポーツ以外でも、チェーン展開する飲食店に入れば、アルバイトスタッフはユニフォームを着たまま店内でまかない食を食べ、携帯電話で通話をしている。日本にはまずない光景だ。
こんな事を見てきました。学んできました。なので、日本でもこうしましょう。
では、どこか浅すぎないだろうか。
土地も違えば、文化も違う。相手のパーソナリティも。全て違う。
その組織が強ければ正解という訳でもでもない。
見たものが、全て自分の指導する組織にそのまま当てはまるとも限らない。
学んだ事はたくさんあるがそれが直接的には繋がらない。というか繋げてはならないと考える。
自らの感性を磨き、選択肢を増やし、物事に疑問を持てるようにするためにこういった活動を行った。
だから、「非日常から日常を変える」なのだ。
今回のこのブログの発信対象は主に大学生である。
「大学生最強説」の立証に自ら取り組んでみた。
大学生をやりながら、大学生っていいなと思っていた。
だから、例え、スポーツじゃなくてもこれを読んでもらって何か行動を起こすきっかけとなればと思う。
自分自身の将来を考え、今すべきことを自分なりに見つけた。
ただこれは、この先も同じである。
社会人1年目だからこそ、できること、感じれる事。完全に身内になりきる前のよそ者だからこそ感じるられることを感じられたらと思う。
さぁまた明日から日常が始まる。
あとがき
今回、主な対象者は大学生と言ったが、私自身こうした行動を行い出したのは大学生からであるし、まだ、大学生しか経験していない。
その事から大学生を主な対象者としたが、読んでいただいている人の今になんらかの影響を与えられたら幸いである。
大学生の時は大学生のうちしか出来ない。と思い込ませて行動してきたが、今も今しかできない事はある。
今後も自らの感性を磨き、疑問を持ち、選択肢を広げるべく行動を起こしていきたい。
※リアクションを頂けると幸いです。
よろしくお願いします!
菅野雅之
大学とは一体誰のためのものなのか。
3月某日、私は大学の卒業式を迎えた。4年間という時間を過ごした学び舎を巣立ち、社会へ旅立つ晴れやかな日を迎えた。
しかし、私の心はどうも快晴とは言い難い状況にあった。
私は、昨年の教員採用試験に現役合格を果たした。合格した自治体には大学からはじめての合格者ということもあり、多くの人達が喜んでくれた。
しかし、私はそこで強い違和感を感じた。周囲の人たちは、私が合格したことで、今回合格できなかった多くの人が見えなくなってしまっているからである。
毎年、合格者は出しているとはいえ、その影には多くの悔しい思いをした者がいる。
誤解を招くかもしれないが、あえてこのような表現をさせてもらう。
「私には教員採用試験に合格する才能があったのだ。」教員としての才能があるかは別として。
もちろん、周りの人に支えられ、様々な人に協力してもらい、仲間にも恵まれた。自分一人では到底成し得なかったものである。周囲の人々には心から感謝している。
ここで私が何を言いたいか理解していただけるだろうか。決して天狗になり、浮かれているわけではない。
例えば、今までプロ野球選手が出たことのない学校から、初めてプロ野球選手が誕生したとする。確かに、そこには指導者の指導力や、仲間との出会い、環境、本人の努力など様々な要因があるだろう。
ただ、一番の要因は紛れもなく本人の才能である。つまり、その人に関わった全てが完璧で素晴らしく、改善する部分は一つも無い。というわけでは無いのだ。
スポーツや受験など、どうしても勝負に勝った者や、成功した人にばかり光が当たってしまう。だからこそ、こうした問題提起をしっかりとしていくことが重要なのではないだろうか。
私が抱いた疑問
それでは、本題に入る。私が教員採用試験の対策を行って来た中で一番疑問に感じたのが、「学内施設を一般学生が使用できない」と言う事である。(そもそも一般学生とい表現にも違和感を感じるが、ここで言う一般学生とは、部活動をしていない学生を指す。)
現に私は、採用試験の実技試験の1週間前が大学の定期試験と重なった。大学の規則上、テスト期間中は学内にあるバスケットボールコートの利用は禁止される。そこで体育館の使用許可を求めたが、それも部活動は認められるが、一般学生の利用は断られた。
テスト期間中は部活動も原則、活動を休止する事が義務づけられているが、施設の利用は認められている。むしろ、強制自主練という名目で練習をしている。(私は大学3年の夏まで、体育会の強化指定部に属していた。)
終いには、地元の中学や母校にお願いしてくれと。
どこか違和感を感じないだろうか。
さらに、教員採用試験は夏に行われるがそこの一番重要な時期が学校の1週間のお盆休みと重なり、学内施設の利用どころが学内への立ち入りまで禁止された。
現在も、今年の夏の教員採用試験を受験する学生がその対策のために学内施設の利用の許可をもらいに行くが、たらい回しにされ、最終的には使用の許可はもらえなかった。
一体、大学とは誰のためにあり、大学職員は何のために働いているのだろうか。
確かに、一般学生が部活動の施設を使用しようとすればそれは、部活動の施設ではあるから部活が優先なのは分かる。
一般の学生が使用するから部活動の練習が出来なくなってしまうのは部活動を行なっている学生からしたら、たまったものではない。
私も3年の夏まで強化指定部に所属し、体育会で競技を行ってきた人間であるからその気持ちはよく分かる。
ただ、大人達の話聞いてるとすごく違和感を感じる。「教員採用試験を受験する学生は部活動の生徒ではないけど一般の生徒でもないからある程度融通は利くんだけどねぇ。」と。
根本的にこの考え方に強い違和感を感じる。
部活動の施設であるから部活動の生徒が優先されるのは分かる。ただ、その他の生徒に関しては、本学の学生である事には変わりはないのだ。ましてや、他大学の学生が施設の利用許可を願い出ているわけではない。
高い授業料を払い、施設維持費も払っている。
誰のためのルールで、誰のための施設で、彼らは誰のために仕事をしているのだろうか。
ある人は卒業式にこんな祝辞を述べた。「意思のあるところに道は開ける。」と。
しかし、このままでは意思のある人間にこそ、壁が立ちはだかる状況である。
学生一人が声をあげたところで、何も変わらないかもしれないが、学生が声をあげなければならないのだ。実際に現場で被害を受けているのは学生なのだから。
私が今回のブログを通して伝えたいことは、「私の出身大学は底辺であり、4年間は無駄だった。4年間を返せ。」ということではない。
矛盾しているかもしれないが、私はこの4年間を後悔はしていない。むしろ、この4年間での生活を誇らしく思っている。(そこには声をあげた事で変化したものもあれば、どうにもならなければ自分なりに方法を変えてアクションを起こしたからである。)
大学という、閉鎖的な環境に身を置く学生にとって、自分の通う大学こそが世間一般的な大学である。
誰も、他大学の学生がどんな環境で、どんな事を学び、どのように生活しているかなど、自分の大学以上に知っている者などいない。
だからこそ、現在、大学に通っている学生は与えられた環境の中で、それに不満があっても、お利口さんに過ごすのではなく、自ら学ぶ環境を整え、声をあげなければならないのではないだろうか。
そして大学生のみならず、多くの人にこういった現実を知ってもらいたい。
これから大学に入る人もいれば、親になる人もいるのだから。
「うちの大学ではこんな資格が取れますよ!」
でも、資格が取れるだけで、出口がなかったり。
「うちの大学では留学ができますよ!」
でも、休学するのに何十万もかかったり。
こういった件に関して一番悪いのは大学ではなく、親と学生である。声をあげないどころが、それにすら気づかぬまま、学歴だけを求めて大学4年間を終える学生がほとんどではないだろうか。(気づかぬ方が幸せなのか。)
もちろん、私も私の通った大学の事しか詳しくは分からないが。
まとめ
私が伝えたかった事は「村の常識が、世界の常識とは限らない。」という事である。
もう一度言うが、私はこの大学に入ってよかったと考えている。今回、母校はダメだと訴えかけたのではなく、今後より良くなるために声をあげたのだ。
そしてこれを読んだことで、大学というものの見方や、選び方、学び方に少しでも影響を与えられたら幸いである。
あとがき
先日行われた卒業式では、学業成績の優秀生と結果を残した部活動が表彰された。
学業成績の優秀生が表彰されるのは分かるが、なぜ、結果を残した部活動が表彰されるのだろうか。大学における部活動の位置付けはかなり上だという事を感じた。
ここでは「勝った」事を讃えられていると私はとらえたが、みなさんはどう考えるだろうか。
卒業式で部活動の活躍を表彰するという行為は他大学でもあるのだろうか。
違和感を感じるのは私だけだろうか。
私も部活動を行なっていた時にはこのような事は普通の出来事であったが、少し離れ、客観視すると疑問に思った。
みなさんのご意見をいただければと思う。
※このブログを読んだ感想や、意見や反論、提案などリアクションしてもらえるとありがたいです。よろしくお願いします。
ブログ、やってみた。
ブログ、やってみた。
私がこのブログを書いている現在は22歳の3月である。大学の卒業式を終えたが、仕事はまだ始まっていない22歳の男性である。春からの肩書きは学校教員である。
すなわち、社会に出た経験も無ければ、何かを成し遂げた人間でもない。芸能人でも無ければ、金メダリストでもない。そんな中途半端な立ち位置の人間である。
果たしてそんな奴の、意見や情報などに価値はあるのだろうか。
もう少し、一人前になってからこういった活動をするという考え方もあるかと思う。
しかし、私はこのタイミングを選んだ。いや、もう少し早く始めたかったのが本心である。
「今はまだ早い。一流の人間になってから。」とは言うものの、では一流の人間となるタイミングはいつなのだろうか。何を基準として自分を一流の人間だと言えて、何かを発信してもいいレベルだと判断するのだろうか。そんな事を待っている間に人生の終わりを迎えてしまうのではないだろうか。と考えたからである。
三流でも四流でも、それなりに意見や情報を発信していくうちに、様々な意見をもらい二流へ、そしてやがて一流になれたらいいと思う。その過程を発信していくのも面白いのではないだろうか。(矛盾するが、ここでは一流の定義も、二流の定義もない。)
上手くなってから、教えられるレベルになってから。ではなく、今からやる。今、考えている事を発信する。
私はそこに価値があると考える。大学生と社会人の狭間の人間が。また、時間が進み社会人1年目の人間が、何を考え、どのように生きているのか。
ましてや、野球という競技を狂ったように小学2年から大学3年まで続けた人間が、ブログを書く。そして学校教員になる。
野球を私よりずっと続けた人間は山ほどいるし、学校教員になる人間も山ほどいる。全国のスポーツ現場や学校へ足を運んだ人間も山ほどいるし、アメリカへ一人旅をした事のある人間も山ほどいる。トレーニングが好きな人間も山ほどいる。でも、それらをかけ合わせた人間はどれほどいるだろうか。ましてや22歳。
一流じゃないからこその意見。若い奴の意見。これに価値があるのではと考えた。
価値とはなにか?
ちなみに、価値と言う言葉を散々使ったが価値とは少し抽象的な言葉である。
さらに、価値を上げられる人間はごく一部だけという訳ではない。それぞれの経験は違うし、考え方も違うからだ。(希少価値)
他にも価値を上げるにはいくつかの要因がある。
多くの人が読んでくれればそれも価値。
それに払う対価が高いのも価値。
しかし、私がここで言う価値とはどちらかというと希少性や影響力の強さである。
その為、対象とする人は狭くなるし、書く内容も限られてくる。
その代わり、上記の価値を少しだけ上げる。
というところだ。
なぜ、ブログ?
目的は2つある。
1つは、私の発信した意見や情報で誰かのきっかけになれればと考えた。
2つ目は、私の発信した意見や情報に対して、反論や提案をもらい、意見交換がしたいということ。
あとは文字数に関係なく、言葉で伝えられるツールとしてブログを選んだ。そして単純に文字や言葉で表現するのが好きだからである。
こうした目的でブログをやってみた。
読んで頂ければ幸いです。